隣の飛行場には完成した「飛燕」が並んでいた。明石市の航空機工場。1945年の大空襲で一面焼け野原に。首に風呂敷を下げ、飛び散った同僚の遺体を集めた〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/03/13 11:11
兵庫県明石市の工場にいた頃の制服姿の遠矢文雄さん
兵庫県明石市の工場にいた頃の制服姿の遠矢文雄さん
■遠矢文雄さん(95)=大崎町仮宿

 大崎尋常高等小学校4年生だった1937(昭和12)年7月7日、中国・北京郊外で盧溝橋事件が起き日中戦争が始まった。子どもは出征兵士の武運長久の祈願祭に参加したり、旗行列で大隅大崎駅まで見送ったりする日々が続いた。

 多くの人が戦争に駆り出された。学校の授業はほとんど午前中だけ。5年生以上になると午後は健児団という組織で体力づくりの訓練が日課だった。

 41年3月、同校高等科を14歳で卒業し4月から神戸市の川崎重工業に同級生3人と入社した。寮生活で、約500坪の運動場の周囲に宿舎15棟、講堂、食堂、浴場を備えていた。寮長と副長は陸軍の退役軍人。500人ほどの共同生活だった。

 午前5時に起床。上半身裸になり屋外で乾布摩擦の後、ラジオ体操をした。雨の日は講堂であった。午前中は会社内の学校で普通科と高等科に分けられ、授業を受けた。技能者養成令による工業学校並みの高度な内容だった。午後は実習で全てが軍隊式。自動車部門に配属され、工場で組み立て作業を担当した。

 41年12月、真珠湾攻撃で日本が米英に宣戦布告する。翌年5月に兵庫県明石市にある系列の航空機工場に転勤になった。工場横の飛行場には、完成し引き渡しを待つ三式戦闘機「飛燕(ひえん)」が並んでいた。

 優秀な技術者の先輩らは召集されていた。徴用されたさまざまな職業の人や先輩2、3人と2交代制でエンジン部門の組み立て作業をした。近辺の学校の挺身(ていしん)隊の女学生が数多くいた。


 45年になると敗戦色が濃くなる。連日、空襲警報が鳴った。米軍機は航空写真を撮るためか、かなりの高度で飛来していた。何の反撃もできない悔しさに慣れてしまい、連戦連勝を伝える大本営発表にも不信感を抱くようになった。

 6月か7月だったと記憶している。すさまじい大空襲に見舞われた。夜勤明けで神戸市の下宿先から出勤すると、辺り一面焼け野原だった。工場は完全に破壊され、臨時の憲兵が物々しく警護に当たっていた。大型の工作機械をはじめ使える物は何一つなく、悲惨な状況だった。

 空襲時に勤務していた同僚や挺身隊の学生はほとんどが犠牲になった。首に風呂敷を提げ鉄骨によじ上り、飛び散った遺体の一部を火ばさみで集める毎日だった。上空には多くの鳥が飛び交い、「早く集めなければ」と涙を流しながら拾った。

 生き延びた私は、20歳前後で犠牲になった若者の5倍近い年齢を重ねた。申し訳ないという思いは今でも残っている。多くの同級生も戦死した。若い人たちが犠牲になる戦争は二度としてはいけない。同じ過ちを繰り返してはいけない。