米軍統治下の奄美出身者は“非琉球人”。困窮者支援の資格はなく、学費支援制度も対象外。「なぜ差別されなければいけないのか」。50年前の日本復帰、くびきから解き放たれた

 2022/05/15 07:30
「琉球弧の軍事基地化を日本全体の問題として考えてほしい」と語る青山惠昭さん=沖縄県浦添市
「琉球弧の軍事基地化を日本全体の問題として考えてほしい」と語る青山惠昭さん=沖縄県浦添市
 「お父さんのマブイ(魂)を拾ってきて。きっと与論にいるはずだから」

 小学2年生だった1952年の夏休み。母に言われ、海を渡った記憶は鮮明だ。

 住んでいた沖縄県国頭(くにがみ)村から、二十数キロ離れた与論へ。漁師だった伯父の船で送り迎えしてもらい、1週間ほど滞在した。台湾で5年前に起きた武力弾圧の「2.28事件」で命を落とした父を、故郷の島で弔うことができた。

 奄美群島は翌53年、日本へ復帰した。国頭と与論間の北緯27度線の海に「国境」が引かれ、自由に行き来できなくなった。「もう与論に渡れないと思い、やるせなかった」

■不条理

 台湾で生まれ、父の死後は母の地元の国頭村で暮らした。本籍は父と同じ与論。米軍統治下の沖縄では“非琉球人”の扱いだった。在留許可証の携帯を義務付けられ、公職に就けないなど多くの差別を受けた。

 母が過労で倒れた際は、困窮者支援を申請しようにも資格がなかった。親戚のパイナップル畑を開墾して稼ぎ、何とか暮らした。

 高校卒業後に本土の国立大学へ進める学費支援制度も対象外とされた。那覇市役所の臨時職員として働いて学資をため、2年後に琉球大に入った。「税金を払っているのに、なぜ差別されなければいけないのか」。不条理への憤りから沖縄の日本復帰運動にのめり込んだ。

 64年、海上の国境線付近で本土と沖縄の船が集い、早期復帰を訴える海上集会に学生代表団の一人として同乗した。与論からの船に乗っていた伯父と12年ぶりに再会し、すれ違いざまに手をたたき合った。「飛び移りたい衝動を必死にこらえた」と振り返る。

■捨て石

 沖縄が復帰した72年5月15日の当日、那覇市与儀公園であった県民大会に参加した。「奄美出身者が全てのくびきから解き放たれる」。ほっとした一方、当時からウチナーンチュ(沖縄人)として、米軍基地が残ったままの復帰に強い怒りを感じていた。

 今も在日米軍専用施設の約7割は沖縄に集中する。「沖縄を捨て石に、多くの日本人が安穏と暮らしている。50年たっても変わっていない」

 国は尖閣諸島や台湾を巡る有事に備え、奄美や西之表市馬毛島など南西諸島に自衛隊施設の整備を急ぐ。こうした現状に「防衛という言葉の対象には基地がある島は含まれない」と警鐘を鳴らす。「南九州から台湾までの琉球弧が基地化している。日本全体の問題として考えてほしい」と力を込めた。

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 沖縄が日本に復帰して5月15日で50年。沖縄・鹿児島ゆかりの人に、両県とのこれまでの関わりを語ってもらい、将来への思いをつなぐ。