鹿児島大空襲77年 焼夷弾が深夜の街に降りそそぎ、寝室にも散乱。足で庭に蹴り出した。爆撃機はまるで魔物。焼け野原に高島屋がぽつんと残った 高島屋開発相談役・海江田順三郎さんに聞く

 2022/06/17 10:00
鹿児島大空襲後、中央にぽつんと残る当時の高島屋(平岡正三郎さん撮影)
鹿児島大空襲後、中央にぽつんと残る当時の高島屋(平岡正三郎さん撮影)
 1945(昭和20)年6月17日の鹿児島大空襲。焼夷(しょうい)弾が深夜の市街地に降りそそぎ、一晩で大部分が消失した。センテラス天文館が開業し、にぎわう千日町一帯も焼け野原となった。大空襲を経験、60年以上町を見守ってきた高島屋開発相談役の海江田順三郎さん(94)は、ロシアのウクライナ侵攻に心を痛めながら「戦争を仕掛けていいことなんかない」と訴える。

 「鹿児島市戦災復興誌」によると、3月18日から8月6日までに8回あったとされた空襲の中で最大規模だったのが鹿児島大空襲だ。推定13万発の焼夷弾が投下され、死者は約2300人、負傷者は約3500人だったとされる。

 焼失した市街地にぽつんと残る建物が高島屋だ。鉄筋コンクリート造りの4階建てだった。

 17歳だった海江田さんは長崎県佐世保に勤労動員され、熊本で陸軍航空士官学校の試験を受けた後、潮見町(現・泉町)の実家に帰省していた。姉にたたき起こされ敷地内の防空壕(ごう)に飛び込むが、自宅に大量の焼夷弾が直撃した。消火のために慌てて壕を飛び出し、寝室に散乱した焼夷弾を足で庭に蹴り出した。

 士官学校進学に反対していた父親は、火の海となった市街地を見ながら「軍人になって必ずかたきを取れ」と叫んだ。火が噴き出す家屋や逃げ惑う人々は「まるで地獄絵図のよう。今でも夢に出てくる」と明かした。

 海岸へ避難しようとしたとき、照明弾に照らされた銀色に輝くB29の機体が見えた。「魔物のようで威圧された」。8月15日に終戦を迎え、士官学校に入学することはなかった。

 海江田さんはその後京都大学へ進学。53年に卒業し、鹿児島市で兄弟3人で倉庫業を営んでいた。高島屋を創業した犬伏家との縁談があり、59年に高島屋の経営陣に加わった。

 戦災復興誌と「鹿児島引揚援護局史」によると、高島屋は45年末から営業を再開し、海外からの引き揚げ者の宿舎として46年8月まで2階以上を提供した。収容能力は1500人ほどだった。「ここにお世話になったんですと、訪ねてくる県外からのお客さまが70年代までいた」と振り返る。

 高島屋の売り上げは高度経済成長期の50年代後半以降順調だったが、右肩上がりの時代は70年代に終わりを告げた。大型スーパーが台頭していく中で百貨店スタイルからの変更を余儀なくされ、テナント形式のファッションビル「高島屋プラザ(後にタカプラへ改称)」へ75年に転換した。

 戦後77年。時代に翻弄(ほんろう)されながらも、復興する街を見つめてきた。開業したセンテラス天文館に「老若男女が集う『新しい街』だ。地盤沈下していた天文館の繁栄を取り戻す役割を果たしてくれるのでは」と期待しながら、「愛する街が二度と戦火にさらされることがないように」と強く願っている。