どこに行くにも一緒。家族の一員だった赤毛の犬「マル」。空襲が激しくなり「町から犬が消えている」とうわさが。ある日、自転車に乗ったおじさんがマルを連れていった〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/07/31 11:11
父豊さんが母フミさんに宛てた軍事郵便を大切に保管する宮内悦雄さん
父豊さんが母フミさんに宛てた軍事郵便を大切に保管する宮内悦雄さん
■宮内悦雄さん(84)鹿児島県枕崎市中町

 船乗りだった父は私が生まれて間もなく旧陸軍の工兵として召集された。劣悪な環境だったのか、1938(昭和13)年、中国河南省で病死した。28歳だった。記憶はない。父が母に宛てた軍事郵便が今も手元に残っている。「毎日悦雄の写真をだいて寝ている-」。読み返すたびに涙が出る。

 母は父に代わって一家の大黒柱となり、義母らの面倒を見た。かつお節削りの職人として働きづめだった。母と2人暮らしで、きょうだいもいなかった私にとって、隣のかつお節工場で飼われていた赤毛の犬マルが遊び相手だった。どこへ行くにもいつも一緒。家族の一員だった。

 45年に入り、B29爆撃機の大群が枕崎上空を頻繁に通過するようになった。警報が鳴るたびに近くの防空壕(ごう)へ避難する日が続き、子どもたちの間で「町から犬が消えている」といったうわさが立つようになった。

 「犬の皮が兵隊の防寒服になるらしい」とか「鳴き声がB29に聞かれて爆撃を受ける」とささやかれた。知人宅の大きなシェパードは軍用犬として徴用されることになり、駅まで見送りへ。大きなおりに入れられ貨物車で運ばれて行くのを見て不安が大きくなった。

 自転車に乗ったおじさんがやってきたのはその頃。当時、自転車は庶民にとってぜいたく品で珍しかった。工場から引っ張り出されたマルは首輪に荒縄を通され、荷台に結われた。こちらを見たがほえることもなく、自転車の後についてとことこ走って行った。胸の中で「早く逃げろ」と願ったが、声もかけられず、追いかけることもできなかった。ぼうぜんと立ち尽くしていただけだった。

 子供心に「お国のためには何でもしなければならない」という思いがあった。飼い主が出て来なかったのも、反対すれば「国賊」とみなされると思ったからかもしれない。鉄鍋の供出に不平を言うだけで注意されるような時代だった。

 間もなく7月29日の枕崎空襲を迎えた。早めの朝食を済ませ、近くの浜で遊んでいた時に警報が鳴った。母に呼ばれて走って防空壕へ。いったん爆音がやんだので外に出ると、近くで黒煙が上がっていた。

 よその壕には入れてもらえず、母と山手へ避難する道中、高台から燃える市街地を眺めた。昼間でも炎は赤く、白や黒の煙が上った。わが家も全焼した。夢のようだった。あと2週間で終戦という時期に小さな街が狙われたのは、カツオ船の出港地だったからだろうか。

 戦時中は全国の動物園でもたくさんの動物が殺されたと聞く。多くの人が悲しい思いをした。一人一人が平和について考えをめぐらすよう、子どもたちに戦争の記憶を伝えていく教育が大切だ。

(2022年7月30日付紙面掲載)