旧陸軍西古見砲台。軍の横暴に異を唱えた青年は、袋だたきにされ命を落とす。戦争が終わっても集落を訪ねる兵隊がいなかったわけだ〈証言 語り継ぐ戦争〉

 2022/09/19 08:43
西古見砲台に配備されていた28センチりゅう弾砲(1945年10月6日撮影)=瀬戸内町西古見(沖縄県公文書館所蔵)
西古見砲台に配備されていた28センチりゅう弾砲(1945年10月6日撮影)=瀬戸内町西古見(沖縄県公文書館所蔵)
■山元真琴さん(83)鹿児島県瀬戸内町西古見

 小学校入学前、東京都江東区北砂町(当時)で瀬戸内町西古見出身の両親と暮らしていた。父が働いていた鉄工所の社宅だった。太平洋戦争末期になると、米軍の空襲が激しくなった。

 1945年3月10日の東京大空襲の約1カ月前、隣のおばさんが防空壕(ごう)に逃げ込む準備中、機銃掃射に遭った。右肩付近を撃たれて吹き飛び、即死だった。間もなく一家で群馬県高崎市に疎開した。

 東京大空襲の翌日、身重の母と木造長屋の社宅を確かめに行った。上野駅まで汽車が走っていた。降りると一面の焼け野原で、はるか遠くまで見渡せた。人間が焼け焦げた何とも言えないすごい臭いが漂っていた。今でも嗅ぎ分けられる。

 黒く焦げ、性別すら分からない遺体が至る所にごろごろと転がっていた。わが子を抱いたまま息絶えた母親、水を求めて側溝近くで倒れていた多くの人々を忘れられない。死の世界、まさに地獄だった。

 上野からは母と手をつなぎ、北砂町までずっと歩いた。社宅は奇跡的に無事だった。腹が減り、焼け跡で拾った穀物を集めておかゆを炊いた。臭くてとても食べられなかった。

 母は胎盤の早期剥離のため37歳で5月に亡くなった。いとこ夫婦の世話になり、高崎で終戦を迎えた。父と奄美大島に帰ろうとし、引き揚げ者が故郷などに戻るまで泊まる鹿児島の収容所に入った。鹿児島市伊敷と加治木町の2カ所で船を待ったが乗れなかった。

 小学校に入るため46年春、飯野町(現えびの市)の親戚に預けられた。栄養失調になって横浜の叔母宅へ移り、この年の夏休み、ようやく父と帰郷できた。

 横浜から広島まで汽車だった。原爆が落ちた広島はがれきだらけ。トタン板の小屋で商売していた。宇品(広島)港から名瀬港まで海防艦に乗り、とても速かった。1泊後、米軍の上陸用舟艇で瀬戸内町古仁屋へ。また1泊し、ポンポン船で西古見に着いた。

 2学期から西古見小に通った。釣りをしたり、旧陸軍西古見砲台の28センチりゅう弾砲や弾薬庫、衛舎で遊んだりした。りゅう弾砲は4門でとても大きく、管理が行き届いていた。砲台看守の衛舎はきれいに整備され、造りも威厳があった。

 西古見に近い集落の青年が戦時中、住民から徴収する軍に異を唱えた。呼び出されて袋だたきにされ、命を落としたという。この一件は長い間かん口令が敷かれていたそうだ。戦後、当時を懐かしんで訪ねてくる兵隊が誰もおらず、ずっと不思議だった。この話を聞き、恨みを買っていたからだろうと合点がいった。

 軍はとても横暴だったと思う。外国に攻め入り、迷惑をかけただけではない。沖縄戦で住民を巻き込むなど自国民をも虐待した。戦争は人間を狂わせる。無謀な戦争をなぜ始めたのか。検証すべきだろう。

 貧しい生活を送り、今が一番幸せだ。あんな時代に戻ってほしくない。子や孫につらい思いをさせたくない。戦争になれば兵隊はもちろん、一般の国民が犠牲になる。ロシアに侵攻されているウクライナがそう。惨状を目にする度に心が痛む。

(2022年9月16日付紙面掲載)