2020/11/21 本紙掲載 

「新聞」感想文コンクール

第20回「新聞」感想文コンクール(南日本新聞社、南日本新聞南日会主催)に、鹿児島県内の小中高校から1498点の作品が寄せられた。新聞記事をじっくり読み込み、新型コロナウイルスの感染拡大をはじめとした時事問題を自分自身に引き寄せて、豊かな感性で分かりやすく表現した作品が多かった。新聞へのこだわりや熱意が感じられる作品に贈る南日会特別賞や小・中・高7部門の1席を紹介する。

審査総評

気付きと視野の広がりを

鶴丸高校教諭 浜田 忠臣氏

今回新聞感想文コンクール審査において、児童・生徒の数多くの作文を読む機会を得た。
 20年の歴史を刻むコンクールでは、6~8月の新聞記事を読んで感想を書くものであり、膨大な量の中から自分が取り上げたい記事を選ぶことから始まる。夏の時期なので戦争・平和、また水害などの自然災害の話題がよく見られるが、その年独特の事柄や、小さな話題でも自らの心をつかんでやまないものなど、児童・生徒たちの感性の擽(くすぐ)りを味わえる「記事のつかみ」が楽しみであった。今年はやはり「コロナ禍」関係が目立ったが、その話題にとどまらない、付随するさまざまな視点からの影響や問題の発見なども随所に見られた。彼らの感性の豊かさから紡がれた多くの作品に接することができ、審査のための読みとは言え、私にとっても貴重な時間であった。
 新聞など既存のメディアの危機が叫ばれて久しい。さまざまな権威が失墜しては相対化される傾向が強まっている。長らく優位を誇ったTV界もネットを中心とした会員制交流サイト(SNS)に押される昨今である。この厳しさの中で「新聞の役割は何なのか」を問いかけるものとしても、このコンクールの存在は意味を持つと思われる。
 先ほどの「コロナ禍」であるが、この言葉も他のメディア以上に新聞の影響を感じる。当初は「新型コロナウイルスによる新型肺炎」、すなわち「新型肺炎」という病気の恐怖から始まったと記憶しているが、いつの間にか「コロナ禍」という経済的略称の命名が一人歩きし、コロナに対する過剰な反応や差別を助長する象徴にもなった感がある。しかし、ここ数週間の紙面に「コロナ下」という通常の表現がちらほら見られるのも確かである。もちろん、第三波、四波の怖さ、感染で苦しむ方々はいまだに多いが、春の頃の先が見えない恐怖の闇が少しずつ抜けつつあるという、国民全体の感情も反映しているのではないか。また、新聞の見出しか店舗の張り紙だったか定かでないが、この前「コロナ渦」という表記を見かけた。一瞬誤字かと思ったが、アフターならぬウィズコロナが叫ばれていることを考えると、言い得て妙(みょう)なる命名とも思う。
 膨大な情報が出ては消える、めまぐるしいスピード感で進んでいく現代社会において、ある種の立ち戻りや冷静さを促す存在として「新聞」というメディアの可能性を感じる。児童・生徒にもそのあたりを味わってほしい。
 先日、くしくも「コロナ禍」のステイホームの中で、リスナーに語りかけてくれるラジオの存在が再認識されていると聞いた。新聞の評価も思いがけないことから浮かび上がるのではないだろうか。