2018/11/17 本紙掲載 
高校の部1席

平成三〇年に向き合うべきは

鶴丸高3年 有馬 楓さん

 「死刑が執行されました」。一瞬はっとした。が、次の報道に移ると同時に興味も薄れた。テレビでオウム関連の死刑執行のニュースが流れていたのである。しばらくして、新聞で同様の報道を目にした。今度は考えさせられた。自分で情報を捉えないと掴(つか)めないことがあると気付かされた。
 記事を読む中で、違和感を覚えたことがあった。国際世論は死刑に反対だということだ。私は死刑が存在することに疑問を持ったことはない。私は偏った考えなのだろうかと自問自答していると、驚くべきデータが紹介されていた。二〇一四年時点で、日本人の八〇・三%が死刑容認だという。興味深い事実だと思った。国際化した二一世紀において、何かと同化しがちな日本人が国際情勢に逆行しているのには、何か理由があると思った。そこで私に考える種を与えてくれたのは、亀石倫子氏の意見であった。
 亀石氏は、ある中学生に死刑執行の方法を教えたエピソードから、現在の死刑制度について論じていた。その中学生は悪人が死ぬと皆幸せになるのではないかと亀石氏に尋ねたが、執行方法を知って表情を曇らせた。
 私も似たような経験がある。幼い頃、ふと気になって父に死刑について尋ねて衝撃を受けた。死刑の存在だけ知っているのと、その手順を知るのとでは全く違った。当時の私には大きすぎる問題だったが、死刑のあり方や捉え方について向き合う必要性を強く感じたのをよく覚えている。死刑執行ということは、死の宣告をされる人がいるということ、人の命を止める作業をしなければならない人がいるということだと、初めて認識した時だった。
 しかし、痛感したにも関わらず、この記事に辿りつくまでこの問題を失念していたことに深い反省を覚えた。なぜ何年も向き合わずにいたのだろうか。私の思考の無責任さは言うまでもないが、亀石氏は他の一因を指摘していた。死刑の是非への無関心は国家による秘密主義に端を発しているという。日本は死刑に関する情報が少ない。死刑囚の生活の様子、死刑時期の決定方法、執行時の様子、何一つ知ることができない。このことによる無知が、死刑制度に関する議論の場が整わない理由だという。
 なるほどなあ、と思った。情報が少ないから考えが深まりにくく、議論の場がないから問題に触れる機会も少ないのか、と。亀石氏は次のようにも主張していた。国際的に少数派である、死刑制度を存続する立場を貫くなら、情報公開の上で検討と議論を重ねた上での決定であるべきだと。検討と議論を経た決定であるべきだという考えは私も大いに賛成する。批判されてもなお貫くなら道理があって然るべきだし、それが国際社会における責任だと思う。
 しかし一方で、情報公開は単純に要求できるものではないとも思う。裁判にはフローチャートはなく、生きた人間によって行われる。そして死刑とは人の生が大きく関わることだ。他の情報公開とは状況が異なると私は考える。死刑に関する情報公開は死刑囚だけでなくその家族、被害者、遺族のプライバシーまで踏みこむことかもしれない。検討と議論のためには情報が欠かせないのは確かだが、気軽に要求できることではないと心に留めておくべきだと思う。この問題に向かう上では、真摯な姿勢を忘れてはならない。
 死刑制度を考える中で、一番の問題は無関心であると気付かされた。これは平成三〇年の日本における最も大きな問題だと私は考える。死刑制度に限ったことではない。
 先日、日本の政治について友人に尋ねると、「良くも悪くも思わない」と返された。彼女は本心からこう答えたのかもしれないが、私には政治に無関心な発言に聞こえてひどくショックを受けた。
 超少子高齢社会においては、若者が意見を訴えるにはただでさえ数の面でハンデがある。それに加えて低投票率や無関心が続くと、日本はきっと衰退の一途を辿る。生まれてから大きな危機を知らず育った私達の世代は、思考を他人任せにしてきたのかもしれない。
 しかし、この国の担い手となる時期は数年後に迫っている。そのことに気付ける今、無関心な自分に気付ける今、一人でも多くの人が自分で深く思考できるように努力することが必要である。議論が活発になれば、無関心は解消されるだろう。そういう雰囲気をつくりだす者の一人に、私もならなければならない。

【南日会特別賞】 高校の部2席

自分たちにできること

鹿屋高2年 谷 朱里さん

 「乳児置き去り」。この言葉に目がとまった。生後数日の赤ちゃんがトイレに置き去りにされた事件の容疑者逮捕の記事だ。逮捕されたのは10代の女の子であり、驚くことに彼女は自分1人で産んだと供述しているという。
 最近、数多く取り上げられるようになった児童虐待の事件を知る度、虐待をする大人に対して苛立ちを覚えていた。私自身、自分たちの年齢層もあくまで被害者側の子どもに含まれると思っていた。だから、逮捕されたのが私と年齢もそれほど変わらないであろう、10代の少女と記してあるのを読んで、とてもショックだった。そして初めて虐待をしてしまう側の気持ちを考えた。
 彼女はどうして誰にも相談できなかったのだろう。私が彼女と同じ立場だったならどうしただろうか。自分のこと、赤ちゃんのこと、家族のこと。彼女はたくさんのことを考えたにちがいない。そして彼女なりに最適な判断を下した結果がこの事件を起こしてしまったと考えると、とても他人事だとは思えなかった。
 彼女のような人は、いったいどれくらいいるのだろうか。過去の新聞をふり返ってみたところ、鹿児島県内でも、15歳以上20歳未満の人工妊娠中絶件数が200件を超えているという。「育てられない」。この短い言葉に込められた若い女性たちの無念は、はかりしれない。
 こうした状況を改善しようと、孤立女性を支援する団体や行政も増えてきている。しかし、孤独を感じている女性は、孤立女性だけなのだろうか。核家族化が進む現代の日本では、昼間に家事と育児を1人でこなす母親が数多くいる。彼女たちの肉体的、精神的負担も決して少なくはない。SNSが普及し、人と人が面と向かってコミュニケーションをとる機会は、確実に減ってきている。近所同士であっても、深い付き合いがないほどだ。そういった環境の中で、悩みを誰にもうちあけられず、抱え込んでしまった母親が起こす悲惨な事件も全国で後を絶たない。
 インターネットで調べてみたところ、近年、日本では、児童虐待による児童相談所への相談件数が増えてきているという。医療の現場や学校などにより、虐待の発見はするものの、子どもが親をかばって本当のことを話さなかったり、親も自分の行動が虐待だと気づかなかったりして、すぐに解決できる問題ではないようだ。そこで大事になってくることは、周囲の人の協力だと私は思う。人の家庭のことだから関係ない、という考えではなく、子どもの命と親のために何ができるかを考えていく必要があると思う。
 しかし、そういった家庭環境が身近にあった場合、自分たちには何ができるのだろうか。すれ違った時に挨拶をしたり、声をかけてみたりという小さなことをするだけでも救われる人がいるのなら、やる価値があると思う。
 「人権」という、人間が人間らしく生きる権利をめぐって、新しい法律や支援団体ができるなど社会環境は整えられてきている。しかし、児童虐待に関わらず、いじめやパワーハラスメントなどの問題が、連日マスメディアで取り上げられている。人が生きていく中でつらいことや悲しいことは必ずあり、互いを理解し合い助け合って生きていくことが、今、求められている。
 超高齢化社会が進んでいる日本では、介護や、年金の制度から生じる問題が、将来的に今よりも増えることが予想できる。そして、人権問題もより難しく複雑になってくるだろう。
 このように、問題ばかりを並べてみると、将来の日本を生きていくことがつらいことのように思われる。では、明るい未来を生きるために私たちができることは何だろうか。
 それは、冷酷で悲惨な事件から目をそらさず、なぜ起こってしまったのか、何が問題だったのかを真剣に考えることではないだろうか。そして自分の周りに何でも相談できる人のいる環境を整えることが必要であると思う。
 インターネットや学校での講演会、ポスターなどでさまざまな支援団体があることを知ることができ、市の保健センターなどでも毎月相談会を実施している。視野を広くもち、困っている人がいたら、手を差し伸べ、自分が困っていたら助けを求める。1人でも多くの人がこのようなことをすることで人権問題は減少していくと思う。明るい未来実現のために、人任せにせず、自分には何ができるのかを常に考えていくことが大切だと思う。