昭和28年4月、中之島の田づくり。「田んぼは赤土のヤセ土だが、五月と十月に植える二度作。吹いてくるさわやかな風を白い帽子にうけて、島の人たちは早くも田植えの準備をはじめた」と紙面は伝えている。
昭和29年2月、占領下からの復帰がなり、奄美大島では衆院選挙、県議選、旧名瀬市長選、同市議選、和泊町長選と五重の選挙が行われた。当時の紙面では「島の春はさながら選挙狂奏曲たけなわ。日本復帰から正月とめでたいこと続きで、島の子どもたちは選挙もお祭り騒ぎのよう。街頭演説のまわりには大人にまじって子どもの姿も多く、『日本復帰』の香りを満喫させてくれている」と紹介している。
昭和29年、伊作町吹上浜(現日置市吹上町)のさつま湖。「中原池」から「さつま湖」に改名し、その披露が行われ、ヨット、ボート、近代的モーターボートがズラリと並んだが、さらに屋形船2隻もお目見えした。
昭和29年、枕崎港に水揚げされたカツオ。「ことしの枕崎水産界は鼻高々。上半期水揚総額六億四千万円(うちカツオ約五億)は戦後最高。カツオのうち七割が市内加工業者に流れ、東京、阪神相場を相手にカツオ節製品の需注は白熱化している」と報じている。
昭和29年3月、旧上甑村黒瀬漁場で網もちする漁師。暖冬異変で寒ブリに逃げられたが、荒れ狂う黒潮にのって二貫五百匁から三貫の春ブリが姿を見せ始めて漁民の顔は明るくなった、と当時の紙面で紹介している。
昭和30年6月、旧志布志町宮地集落の共同炊事。紙面によると「同集落は田植え時期を迎え、共同炊事と託児所を設け能率をあげている。初めての試みで、十四戸七十人が参加した」と伝えている。
昭和31年7月17日、奄美大島地方は水不足に悲鳴。当時の紙面では「1カ月近く雨が降らず、大島各地で水不足に悩まされている。名瀬市内では水道がとまり、地域の井戸や泉も干上がったところがある。名瀬市塩浜町の一角では30戸が泉ひとつに頼っているが、水は底から2センチほどしかなく、ヒシャクでくむのが子どもたちの仕事になっている」などと報じている。
昭和31年6月17日、宮之浦川で行われた「押し船」競技。紙面によると「端午(たんご)の節句の年中行事で、集落ごとに小舟をしたて川下りの速さ競った。シーズンを迎えたトビウオの豊漁にもわき、終日大にぎわいだった」と伝えている。
昭和31年11月、鹿屋中学校生徒会長の立会演説会。当時の紙面は「生徒会長の立候補者立会演説が同校グラウンドで、1297名の生徒が集まりひらかれた。候補者は各クラスから推された信望家ばかり」と伝えている。
昭和31年12月、竹島にできた真っ白い鉄筋コンクリート校舎と喜ぶ子供たち。紙面によると「昨年九月の台風で旧校舎がブッ倒れ、今年の五月に起工。全島あげての作業で4教室の新校舎を完成させた」と報じている。
昭和33年6月24日、悩みは毎年の水不足、海岸にある泉も満潮時には海中に没する。当時の紙面によると「昨年全島一周の道路が開通し、町営バスが定期運行されるようになったが、山の少ない砂地の多い島では水が乏しく、農業用・生活用の水利整備が求められている。毎年のように干ばつに見舞われ、台風に襲われるのに水不足に悩まされている」などと紹介していた。
昭和35年5月、口之島の国語の授業。当時の紙面は「島ではおじさんには『ジー』、兄さんには『ニー』、姉さんやおばさんには『ネー』が愛称で、これ以上の敬語は必要ない。“呼び捨てゴメン”が親しみの余韻をひびかせる」と報じている。
昭和36年7月、贈り物の雑誌を整理する子供たち。「定期船がはいると、どの島も島をあげての歓迎ぶり。子供たちも先を争って海辺までかけおり、『汽笛がなるともう授業どころではない』と先生たちは苦笑い」と紙面は伝えている。
昭和36年7月、鹿児島市の鹿児島空港(当時)にジェットプロップエンジン旅客機・フレンドシップ機1番機が到着した。「東京-鹿児島を3時間半で飛び、今までより1時間スピードアップ」と当時の紙面。
昭和36年11月、中種子町の精糖工場。紙面によると台風の影響で原料キビに被害があり「品質の大幅な低下が気づかわれている。原料9万トンから黒糖・分蜜糖合計でおよそ1万トンの製品を計算する予定」と伝えている。
昭和36年12月、開発進む屋久島のダム掘削工事の様子。当時の紙面では「安房川第一発電所第二期工事が工費12億円で6月に始まり、本格的なダム建設に入った。新ダムは高さ53メートル、幅140メートルもあり、完工後は合計2万3000kwの出力となる」と伝えている。
昭和37年3月、霧島神宮駅に押し掛けた観光団。当時の紙面は「駅は乗降する観光客で大にぎわい。東京や大阪など、各方面から団体客二万人がおとずれ、例年の二、三割の増。駅長もうれしい悲鳴をあげている」と報じている。
昭和37年6月、ハシケで荷揚げをする青年団。紙面によると「連絡船が珊瑚礁や海底のしゅんせつが浅く物揚げ場に横づけできないため、集落の青年団がハシケで荷物の陸揚げ作業をしている」と伝えている。
昭和37年7月、川内川太平橋下で屋形船の進水式が行われている様子。船上で神事が行われたあと、花火打ち上げとともにあざやかなグリーンの天幕、屋根にちょうちんを飾りつけた3隻の屋形船が川内川に繰り出した、と紙面で伝えている。
昭和37年10月、宇検村の国保巡回診療船「あおはと」の進水式があった。紙面は「巡回診療船は全長5メートル、最大速力7ノットの木造船。10人の患者を運ぶことができ、ポータブル・レントゲン装置や発電設備など備えている。10月下旬から週3日、久志、阿室、名柄で巡回診療に当たる」と報じている。
昭和38年4月、旧祁答院町藺牟田湖観桜会で行われた野焼き。「標高四百九十五メートルの飯盛山の火入れは午後一時半に始められ、ぐれんの炎が約四十分間で五十ヘクタールのカヤを焼きつくす壮観さはみんなの拍手を浴びた」と伝えている。
昭和38年7月23日、屋久島空港の開港式があった。紙面によると「鹿児島市の鴨池小児童から小瀬田小児童に送られた作文の披露があり、永田中や一湊小鼓笛隊の演奏も加わり、町をあげて空港完成を祝った。ターミナルビルなど施設建設は5年をかけ完成。東亜・富士両航空会社による定期便は7月1日から運航を始めている」と報じている。