「男は奴隷に。女は乱暴される」…進駐軍の鹿屋上陸におびえた市民 金浜海岸を埋め尽くした艦艇に、日米の圧倒的物量差を知る

2025/09/07 13:43
1945年9月、鹿屋市高須町の金浜海岸に上陸した進駐軍。ブルドーザーが砂浜を走っている
1945年9月、鹿屋市高須町の金浜海岸に上陸した進駐軍。ブルドーザーが砂浜を走っている
 1945(昭和20)年、鹿児島をはじめとする九州南部で準備が進んでいた本土決戦は、日本の無条件降伏で回避された。だが、天皇自らが戦争の終結を国民に伝えた8月15日の玉音放送を転換点に、市民が安心と安息を手にしたわけではない。連合国軍約2500人の進駐が告げられた鹿屋市では、「上陸した米兵が乱暴と略奪の限りを尽くす」といったうわさが広まり、多くの市民がおびえて山間部に身を隠すなどした。上陸した米軍部隊を目撃した市民は、日米の圧倒的物量差を思い知った。

 45年9月2日、東京湾の横須賀沖に浮かぶ米戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式が行われた。日本側は全権代表の重光葵外相、梅津美治郎参謀総長。連合国側はマッカーサー最高司令官ら米、英、中国、ソ連など9カ国代表が署名した。

 アジア・太平洋戦争の正式な終了だ。日本にとっては建国以来、初めての敗戦による外国軍駐留の開始を意味した。翌日午前、千葉県房総半島の館山で米軍を中心とする進駐軍約3500人の上陸が始まった。

 西日本でいち早く上陸地となったのは鹿屋市だ。3日午後、海軍鹿屋飛行場にD・N・シリング陸軍大佐ら先遣隊14人が2機のダグラスDC3輸送機で降り立った。当時の永田良吉市長のほか、海軍第5航空艦隊・草鹿龍之介司令長官が国の鹿屋連絡委員会委員長の任を帯びて出迎えた。

■国民学校に新校長

 福岡市の九州地方総監府に内閣から緊急電報が届いたのは8月22日だ。地方総監府は本土決戦に備えて45年6月に設置された内務省管理下の地方行政組織で、都道府県の上位に位置付けられていた。

 電報は「米軍、9月2日午前10時鹿屋進駐決す」と告知し、万全の手配を促す内容。鹿屋飛行場や高須港に2日以降、進駐軍主力が上陸するとの情報が県民にも広報された。

 財部町・財部国民学校の新弘(しん・ひろむ)教頭が県学務課から呼び出されたのは8月下旬だ。鹿児島市の城山に掘られていた防空壕(ごう)の仮事務所で、鹿屋市・高須国民学校校長の辞令を受けた。民心安定と治安回復の任務を告げられ、「危険だから家族は連れないで単身赴任してくれ」と言い添えられた。8月30日夜に高須に到着し、35歳の新しい校長になった。

■山間部などに避難

 内務省は8月23日、「進駐軍を迎える国民の心得」を通達した。特に女性に「ふしだらな服装は禁物」「夜はもちろん、昼間でもひとり歩きはしないように」と、警戒を呼びかけた。

 鹿児島日報(南日本新聞の前身)は9月4日付に「進駐軍とその注意」の見出しで啓発記事を掲載している。連合国軍兵士について「永遠に世界の歴史に記録される暴戻(ぼうれい)非道」と不安をあおるような記述がある。一方で、「昨今国内に感じられるほどの不安はない」とも記す。半月前まで「鬼畜」と憎悪した敵兵をどう受け入れるか、報道も混乱を隠せなかった。

 高須地区のみならず鹿屋市全域に恐怖が広がった。「男は全員奴隷にされ、女は片っ端から乱暴される」。まことしやかに語られ、親戚宅や山小屋などに身を隠した市民は多かった。

 高須国民学校の新校長は日本人として誇りある態度を住民に促した。9月2日に町民大会を開いて「進駐軍を受け入れる高須は日本の表玄関。町民の服装や態度は世界中に報道され、日本人の代表になる」と規律と礼儀の徹底を説いた。

■砂浜に上陸用艦艇

 鹿屋進駐は台風の影響で遅れ、高須上陸は4日から始まった。

 ほとんどの住民が避難したと伝わるが、地区が無人になったわけではなかった。「歴史的な瞬間を見る千載一遇のチャンス」と考えた新校長ら教員計6人は海を見渡す裏山に潜んだ。米軍機に見つからないようサツマイモのつるを体に巻き付けて偽装し、200メートルほど離れた浜を見つめた。

 新校長は71年に発行した回想録「昭和の陣痛」で、進駐軍の動向を描写している。複数の艦艇が金浜海岸に乗り上げ、船首の観音開きの扉を開いた。船倉の2階はドラム缶でいっぱいだった。

 船底から出てきたブルドーザーがうなりを上げ、約2時間で海岸の高さ約10メートルの崖をならして県道に上る自動車道を完成させた。砂浜には金網と鉄板が敷かれて補強され、物資の陸揚げ施設があっという間に出来上がってしまった。

 「日本人の常識では何日も要する難工事」「物量と科学力にものを言わせるアメリカの戦力を目の当たりに」と驚愕(きょうがく)を率直に記す。

 進駐軍兵士は地区中心部に近い大白浜からも上陸した。窃盗や不法侵入といったトラブルを起こしたが、女性暴行など重大事件の記録はない。鹿児島日報27日付は「国際都市鹿屋は新生日本の鼓動も強くその端を切って古い殻を脱ぎ捨てている」と称賛した。

 春から夏にかけて本土決戦準備から進駐軍受け入れと翻弄(ほんろう)された80年前の鹿屋は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。

■毎年9月4日、「上陸」語り継ぐ会

 1945(昭和20)年9月4日、鹿屋市高須町の金浜海岸に西日本で初めて進駐軍が上陸したのに合わせ、高須町民会館では例年同日に「語り継ぐ会」が開かれている。今年は当時の様子を知る住民ら約50人が参加し、進駐軍や戦時下の暮らしについて実体験や家族から聞いた話を語り合った。

 戦争の記憶を継承するため高須町内会が主催する。99年に「語る会」として始まり、10年ほど前からは「語り継ぐ会」としてコロナ禍を除き毎年開いてきた。上原義史町内会長(64)は会の冒頭で「毎年同じ話でも構わない。むしろ、その記憶が鮮明である証拠。遠慮なく話して、次の世代へつなげてほしい」と参加者に促した。

 上原さんは進駐軍上陸当時の写真をスライドで紹介。これまでの「語り継ぐ会」を通して判明した上陸場所や進駐軍の動きを改めて説明した。

 当時から高須に住んでいる野村睦弘さん(90)は「米兵の姿は直接は見なかったが、鹿屋飛行場に向けて砂利道の坂を登っていく米兵の、ざくざくという足音は今でも耳に残っている」と話した。

 空襲で自宅が燃え、終戦後もしばらく防空壕で生活していたという上迫ミキ子さん(89)も参加。「鬼畜」と教え込まれた米兵を恐れて住民らが避難した様子を語り、「高須は空っぽになるくらいだった。『女の子は田舎の方へ逃げなさい』と言われて怖かった」と振り返った。

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