看護師が足りず、女学生が交代で衛生隊の駐屯地へ。負傷した兵士の手術にも立ち会った。壊死して太ももから切断され、無造作にバケツに入れられた脚…あの光景は今も忘れない。

2024/09/23 10:00
当時の「千人針」を再現する下村タミ子さん
当時の「千人針」を再現する下村タミ子さん
■下村タミ子さん(80)西之表市西之表

 西之表市の種子島高等女学校に通っていた1944(昭和19)年、中種子町増田の海軍飛行場建設に動員された。女学生20~30人がトラックの荷台に座り移動。初めは海岸の岩場から丸い石を、竹で編んだもっこに積んで運ぶ作業をした。

 建設地は広大で、島民のほか、強制労働させられている朝鮮の人もいた。どの作業も単純な肉体労働で、それが「何のためか」など考えず、ひたすら汗を流した。

 夏から冬にかけ何度か現場に行き、1週間ほど宿舎に入ったこともあった。大部屋で女学校の生徒数十人が寝泊まり。衛生状態は最悪で、毛布には尻の膨れた大きなノミがいた。家に帰ったとき、下着の縫い目にシラミの卵が並んでいたので、釜に入れて煮た。体中、虫に食われていた。

 食事は、ご飯に干した葉が1、2枚入ったみそ汁だけ。大麦と黒砂糖で作るはったい粉の菓子と梅干しを家から持ってきていたが、いつも空腹だった。

 あるとき、宿舎の庭に朝鮮の人が10人ほど並び、働きが悪かったのか殴られていた。倒れた人はバケツで水を掛けられ、何人もが泣いていた。かわいそうと思いながら何も言えず、窓越しに見ているしかなかった。

 宿舎で風呂に入った記憶はないが、風呂たき係をしていた朝鮮のおじさんのことは覚えている。「(朝鮮の民謡)アリランを歌って」とお願いすると、風呂のたき口に座ったまま歌ってくれた。哀調を帯びた歌声だった。以来何度か、作業が終わった夕方ごろ、友達と一緒に訪れ、歌ってもらった。唯一、癒やされる時間だった。

 当時は飛行場建設以外にもいろいろと戦争に伴う作業があり、学校で教科書を開いた記憶があまりない。音楽の時間にはB29とグラマン戦闘機の聞き分け方を教わった。授業中、出征兵士のための「千人針」をして怒られたこともあった。

 看護師が不足していたので包帯の巻き方、注射の打ち方も習い、衛生隊が駐屯する西之表市古田に赴いた。民家に泊まり込み10日間ぐらいで交代。空襲で負傷した兵士の手術に立ち会い、器具を手渡す役などをした。壊死(えし)して太ももから切断された脚が、無造作にバケツに入れられていた光景は今も忘れない。

 包帯は再利用するため川で洗ったが、こびりついたウジはピンセットで取り除いた。患者の中には、包帯には何もついていないのに「ハエを追い払って」と繰り返す人もいた。痛かったのだろう。

 戦況の情報はほとんど入ってこなかった。軍国少女で勝利を信じていたから楽観的だった。空襲の警戒警報が出ても、山手は大丈夫だろうと川の上流へテナガエビを捕りに行ったこともあった。

 終戦後、悲惨な状況が次第に分かってきた。出征した兄3人のうち1人が朝鮮からシベリアに行く途中に病死したことを手紙で知らされた。黒い汚れたつめが添えられていた。

 最近、語り部として学校で話す機会が増えたので、防空ずきんや千人針を作り直した。戦争を知らない子供たちに体験を伝えていきたい。

(2010年7月9日付紙面掲載)

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