学徒動員され鹿児島45連隊に配属。行き先も知らされぬまま列車に乗せられた。船が対馬海峡を渡るとき、中国大陸に向かうのだと分かった

2024/11/11 10:00
東京で特別操縦見習士官の試験も受けた原口明彦さん。「合格していたら生きて帰れなかっただろう」と語る=姶良市下名
東京で特別操縦見習士官の試験も受けた原口明彦さん。「合格していたら生きて帰れなかっただろう」と語る=姶良市下名
■原口明彦さん(87)姶良市下名

 1943年11月、鹿児島高等商業学校(現鹿児島国際大学)2年のとき、学徒動員で繰り上げ卒業した。幹部候補生として鹿児島45連隊に配属され、1カ月後には、行き先も知らされぬまま列車に乗った。船で対馬海峡を渡るとき、中国大陸へ向かうのだと分かった。

 到着した場所は、モンゴル国(外蒙古(そともうこ))との境界近くにある内モンゴル自治区(内蒙古)のメントカ(免渡河)。候補生らはここで約半年間、軍隊の基礎や兵役教育の指導法などを学んだ。建物外で活動すればすぐ凍傷になるような厳寒の地。学舎内にこもったまま教育を受ける日々が続いた。

 仲間が見習い士官として各地に配属される中、病気を患ったおかげで、療養を兼ねた大連(だいれん)行きが決まった。静養のかたわら、日本での配備が始まったばかりの電波警戒機(今のレーダー探知機)について教育を受けた。

 3カ月ほどの習得期間を経て南京に移動。1カ月後には中隊本部がある北京へ移り、さらに河北省張家口(ちょうかこう)、山西省大同(だいどう)と配属先を転々とした。

 強く記憶に残るのは、第5航空軍分遣隊として、外蒙古との境界付近にある内蒙古包頭(ぱおとう)に電波警戒機を設置する任務。20~30人の小隊を組み、内蒙古東北部のホロンバイル草原に向かった。

 設置場所は何もない丘陵地の高台。機材を組み上げ、人手だけで受信機と送信機になる長さ10メートルほどの2本の電柱を、50メートル間隔に立てなければならなかった。10月の現地は冬真っただ中。結局、少し暖かくなってから作業を本格化し、完成までに4、5カ月を要した。

 最初にレーダーでキャッチしたのは米軍のP―38ライトニング戦闘機だった。北京へ向かう3機の機影をとらえ、すぐに本部へ無線連絡。「機能は万端だ」とみんなで喜んだことを覚えている。

 終戦直前、雪が解けて見渡す限りの草原に、夜な夜なオオカミの遠ぼえが響くようになった。新彊(しんきょう)ウイグル自治区のホータン(和田)から進軍した中国共産党軍の「八路軍(はちろぐん)」が接近していたのだ。こちらは小隊にすぎず、機材も高台に設営してあるため隠れようがない。劣勢はあきらかで、恐怖を覚えながら数日間過ごした。

 8月15日、「日本軍が降伏した様子」との情報をつかんだ北京の本部から無線で撤収命令が下り、列車で現地を離れた。

 道中何度も「日本には帰るところはない」「帰れば将校は死刑になる」「共産党に協力しろ」などと言われた。言葉を信じて八路軍に参加した仲間もいたが、日本に帰りたい一心ですべての誘いに見向きもしなかった。

 3月中旬、やっと日本への引き揚げ命令が下り、天津(てんしん)から山口県の仙崎港に帰った。故国の地を踏んだ時、冬は雪に覆われ夏は草原しかない中国内陸部と違い、「日本はきれいな所だ」と痛感。思わず涙が出た。

 武装兵でなく単なる無線部隊、情報の最先端にいたから生き残れた。軍隊生活の2年半は楽をしたし運もよかったと思う。仲間は各地で戦渦に散った。大陸でもかわいそうな人をたくさん見た。「戦争はしてはならない」とつくづく感じる。

(2010年8月11日付紙面掲載)

日間ランキング >