1944年9月、召集令状が来た。運転の腕を買われたのだろうが、時は戦争末期。戦車は影も形もなかった。忘れられないのは「長崎丸沈没」。私は1航海前の便に乗っていたのだ…

2024/11/25 10:00
出征時の寄せ書き入り国旗と軍隊手帳を持つ野元俊雄さん=霧島市牧園
出征時の寄せ書き入り国旗と軍隊手帳を持つ野元俊雄さん=霧島市牧園
■野元俊雄さん(92)霧島市牧園町宿窪田

 牧園で家業の農業を手伝っていた1937(昭和12)年10月、新聞の募集を見て知人3人と長崎・佐世保の海軍工廠(しょう)に働きに出た。当時は兵隊に行くか、軍需工場に行くかだった。

 工廠では軍艦甲板の溶接作業など行ったが、思うほど稼げず残業も少ない。佐世保の海軍軍需部に転職し、軍の食料、弾薬などを船に運び、積み込む作業に就いた。第2次大戦前で、船の行き先は中国が中心だった。

 軍需部で働くうち、外地派遣の話が来た。日給も良くなるうえ、外の世界も見てみたかった。39年4月、中国の揚子江中流にある九江に渡った。

 漁船に積み込んだ物資を、3~5時間かけて安慶、南昌など4カ所ほどの部隊へ運ぶ仕事。船は北海道や三重、長崎県から徴用されていた。運搬は危険と隣り合わせで、沿岸からの攻撃で船の近くに大砲の弾が落ちたことも。濁った川面に大波が立つのを見て「当たらなくてよかった」と胸をなで下ろした。

 月2回ほどの休みは、街中をぶらぶらするくらい。てんびん棒で道具を担いだ散髪屋、流しの胡弓弾きに異国情緒を感じた。私は加わらなかったが、年長者は慰安所に行ったりしたと聞く。

 九江で働くうち、トラック運転手は給料がいいと耳にした。運転免許を取るため、上海発長崎行きの客船「長崎丸」で42年5月7日に帰国した。

 次の航海で長崎港外まで到着した長崎丸は、付近の哨戒艦と連絡を取る際に指定航路をわずかに離れ、日本海軍の機雷に触れて沈没。死者13人、行方不明26人の大惨事となり、菅源三郎船長は責任を取って割腹自殺した。新聞で事故を知り、1航海遅らせていたら死んでいたかも―と、ぞっとした。

 熊本で免許を取り、佐世保の海軍建築部にトラック運転手として就職。現在の霧島市隼人で海軍病院建設に携わった。

 溝辺の海軍航空隊で働く26歳の44年9月、召集令状が来た。久留米の西部49部隊戦車隊に入隊。運転の腕を買われたと思うが、戦争末期で戦車は既に影も形もない。訓練は受けたものの、一度も戦車に乗らないまま、部隊と台湾へ向かった。

 周辺の制海権は米軍が握り、43、44年ごろは米軍潜水艦に船が沈められる事例が多発。実家の近所でも、召集された医師が船で南方戦線に向かう途中、潜水艦に沈められて亡くなったと聞く。日本はもう船がなく、我々が最後の船団と言われた。

 門司港から台湾・基隆までは、普通なら3昼夜で行ける距離。米軍の潜水艦を避けるため、朝鮮半島、中国大陸と陸に沿って進み、10日間かけてたどり着いた。潜水艦の攻撃が多いという夜は、特に不安が増した。仲間と「今夜が最後か」と話し合い、歌って気を紛らわせた。台湾が見えたときは、皆で喜び合った。

 任地の台湾南部の嘉義は米軍の攻撃もなく、平和そのものだった。終戦後は中国軍が来たが、捕虜扱いもされず生活も変わらなかった。米国船で46年3月、和歌山の田辺港に帰り着いた。

 自分は運良く命を永らえたが、現在も世界各地で争いが絶えず胸が痛む。戦争は絶対いけない。

(2010年8月16日付紙面掲載)

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