飛行服姿の写真を手に、南方の戦いを振り返る松永清次さん=志布志市志布志
■松永清次さん(88)志布志市志布志町帖
神戸の商社に勤めていたが、19歳で志願し1939(昭和14)年12月に陸軍入隊。翌年4月、中国南部へ出征した。その後、南京の教導学校を卒業し、上官から「航空隊の予科に志望を出せ」と命じられ、岐阜にあった第二航空教育隊に入った。当時、飛行機乗りはあこがれの的だった。
そこから福生飛行場(東京)や所沢飛行学校(埼玉)で機関の勉強をし、航空修理廠(しょう)の幹部として訓練を受けた。技術者育成の専門機関で、航空隊の技師として誇りを持っていた。
43年、シンガポールの前線、カラン飛行場に配属された。初めは地上での整備を務めたが、機上での仕事を希望。マレー半島クルアンに駐留していた重爆撃部隊「七生御盾特別攻撃隊」に移って、九七式重爆撃機二型(3、4人搭乗)の機関係となった。
銃弾も燃料も部品なども補給は十分で、クルアン一帯では戦況はさほどひっ迫していなかった。45年1月、船団護衛の任務から帰ってきたが、自分の乗り組む機が機関不調のためエンジンを分解し、整備を要することになった。当時の飛行機はすぐ燃料漏れを起こすなど、トラブルも少なくなかった。
23日朝、出撃命令が下ったが、私の機は整備が間に合わず、同僚たち6機を見送ることになった。パレンバンへと向かった部隊は29日、英国の機動艦隊と遭遇、スマトラ島とボルネオ島に挟まれた海域で戦闘となった。
故障した1機を除き、5機が敵艦に突入したという。直前まで寝食をともにしていた、20代の若者29人。すべて帰らぬ人となってしまった。「今も忘れることはない」
日増しに戦局が悪化し、8月15日、クルアンで終戦を知った。「ついに出撃せず、負けた実感もないまま」に、残っていた飛行機を連合軍側に引き渡さなくてはならなくなった。
出発した後から命令が届いたりするような混乱した状況の中、マレー半島北部に列車で移動させられ、日本兵ばかり400人弱の作業部隊が編成された。収容所で1年10カ月の間、同地のゴム畑や村落の復興作業を課せられた。
猛暑に加え、マラリアなどの伝染病、食糧不足に悩まされ、仲間を次々と失っていった。ひもじさに、植えるための落花生の中身を食べ、殻だけを土にまいてごまかしたこともあった。とにかく「生きて日本の地を踏みたい」とそれだけが生きる糧だった。47年6月、ようやく佐世保に復員することができた。
生まれ故郷の志布志に戻り、母シズノと再会したときは言葉にならなかった。母は、私が南方で死んだものとあきらめていたようだった。お互いにただ「よかった。よかった」と涙ながらに抱き合った。
戦争で、あるいは収容所で多くの死を目にしてきた。今思えば、なんのために戦い、なんのために死んだのか? あの若者たちはどうして命を散らさなければならなかったのか? そう思わずにはいられない。二度とあんな戦争をしてはいけない。
(2010年8月20日付紙面掲載)