「あきらめしゃんせよ わしゃ特攻隊よ 花の命もつぼみで散らすのよ」 遊びに来るたび歌っていた中別府さん。最後に来た日もいつものようににこにこしていた。

2024/12/23 10:00
義妹の前之原ミエ子さんの写真を持つ前之原フヂ子さん=鹿屋市郷之原町
義妹の前之原ミエ子さんの写真を持つ前之原フヂ子さん=鹿屋市郷之原町
■前之原フヂ子さん(86)鹿屋市郷之原町

 宮崎県出身の特攻隊員中別府重信さんが、鹿屋市郷之原町の夫の実家に遊びに来るようになったのは、1944年の暮れだった。義妹の前之原ミエ子さん(当時20歳)に会うためで、私が住み始めた45年2月には相思相愛の仲になっていた。45年4月16日、中別府さんは22歳で出撃した。

 中別府さんは白いマフラーの特攻服姿で、同じ特攻隊員と2人で歩いて遊びに来ていた。童顔で、かわいい人だった。家に入るときは、「ただいまー」と言っていた。

 家に来るといつも、「別府のぶ子です」と名乗ってから、はやりの歌を2、3曲歌っていた。ひもが付いた大きな飛行時計を梁(はり)につるして、マイクに見立てていた。女性のようなきれいな声だった。最後には必ず、「あきらめしゃんせよ わしゃ特攻隊よ 花の命もつぼみで散らすのよ」と付け加えた。

 ミエ子さんと中別府さんは、家の中では夫婦のように振る舞っていた。手をつないで寄り添う、幸せそうな姿を今でも覚えている。

 当時の若い女性は特攻隊員のためにお守り人形を作っていた。私もミエ子さんと一緒に布で作り、隊員の無事を祈って「祈武運長久」と墨で書いた。ミエ子さんは中別府さんにも渡していた。

 45年3月ごろから、若い特攻隊員たちが次々と鹿屋基地から出撃していった。中別府さんも近いうちに出撃するのだろうと自然と分かった。そんなある日、「どうして死にに行くの」と聞くミエ子さんに、中別府さんは「日本が勝つために死ぬんだ」と毅然(きぜん)とした態度で答えていた。

 ラジオでは特攻隊による戦果が大々的に放送され、みんなで「万歳」と叫んで喜んだ。誰もが「国のため」と信じ込んでいた。

 中別府さんは出撃する日の前夜も訪ねてきた。出撃日を知っていたのかどうかは分からないが、いつものようににこにこしていたのが印象に残っている。出撃したと分かったのは、家に来なくなったからだった。

 ミエ子さんは中別府さんを忘れられず、遺影となった写真を大切に保管し毎日線香をあげていた。「戦争さえなければ」とつぶやいていた姿が忘れられない。縁談があっても断り、終戦から5年後、後を追うように亡くなった。肺炎だった。

 今年8月、中別府さんのことを調べてみようと思い、鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地史料館を訪ねた。2枚の紙に記録が残っていた。

 作戦名は菊水三号作戦で、部隊名は神雷部隊第7建武隊。「45年4月16日、喜界島沖の敵大部隊攻撃のため、第2昭和、第3七生、第3神剣隊に続いて鹿屋から午前7時56分に出撃」

 中別府さんの最後の打電記録もあり、「午前9時39分、敵戦闘機見ゆ。同9時43分、敵部隊見ゆ。同9時45分、我空母に必中突入中」と書かれていた。初めて見た時は胸が熱くなった。

 戦争は、これから花を咲かせようとしている若いつぼみを無残にもむしり取っていった。二度と繰り返してはいけない。

(2010年8月22日付紙面掲載)

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