終戦後の新京での生活について弟の緒方忠良さん(右)と思い出を語り合う川崎澄子さん=伊佐市菱刈前目
■川崎澄子さん(80)伊佐市菱刈前目
終戦時、私は15歳。母(緒方スマさん)、9歳、5歳、3歳の弟妹3人と満州国の首都だった新京特別市(現中国・長春市)で暮らしていた。同国建築局で公営住宅管理人をしていた父(緒方秋良さん)は1943(昭和18)年9月、海軍に召集され連絡が絶えて久しかった。私は家計を助けるため、国民学校高等科を卒業した44年春から建築局新京管理処で働いていた。
45年8月15日は職場で迎えた。ラジオで玉音放送を聴き、皆ぼう然としていた。管理処長から職場の閉鎖が伝えられ、退職金代わりに多めにお金をもらって家に帰った。
若い女性はソ連兵に狙われるということで、丸刈りにした。母は「嫁にやる前にこんな姿にするとは思わなかった」と、髪を切りながら涙を流した。一度ソ連兵に押し入られたことがあったが、丸刈りのおかげで助かった。
家族が食べていくため、ようかんやぼたもちの行商を始めた。タンスの引き出しを駅弁売りが使うトレーのように改造し、母が朝作った菓子を載せて日本人街で売り歩いた。皆、甘いものに飢えていて、よく売れた。お菓子だけでなく、たばこやうどん玉も売った。
秋から冬にかけて国民党軍と八路軍との間の内戦が激しくなり、一夜で街の支配者が入れ替わることもしょっちゅうだった。捕虜は市内の旧官公庁の屋上に収容されており、弟と一緒にパンを売りに行ったこともある。長いひもを付けたかごを上下させて、お金とパンを交換した。
12月、父の友人で同じ仕事をしていた羽月村(現伊佐市)出身の松崎國盛さんに誘われ、松崎さん家族が住む、2キロ離れた場所に転居した。松崎さんは団地の管理室で日本人向けの雑貨店を営んでおり、日本軍の脱走兵も働いていた。
懸命に働いていた母が高熱で寝込んだのは46年2月。胸膜炎だった。薬はなく、ふくよかだった母は見る見るやせ細り、腰には床ずれができて痛々しかった。お見舞いにゆで卵をもらっても、母は白身だけを食べて、栄養のある黄身は一番下の弟に食べさせていた。
母は4月14日、42歳で亡くなった。「きょうだい仲良く内地に帰りなさい」が遺言だった。
母の死はショックだったが「これからは弟や妹を私が支えて日本に帰らなければならない」と誓った。松崎さんの雑貨店で働きながら、引き揚げの時を待った。
8月に引き揚げが決まり、近くの寺に埋葬していた母のひつぎを掘り出し、荼毘(だび)にふした。白木の箱に入れた遺骨は下の弟がリュックサックで背負い、松崎さん家族らと南新京駅から無蓋(むがい)列車に乗り込んだ。葫蘆(ころ)島を出た引き揚げ船から日本が見えたとき、皆がデッキで喜ぶ中、私は船室で「故郷」という詩を書いた。両親を亡くした切ない思いで涙が止まらなかった。今もその詩は大切に持っている。
父母の故郷である本城村(現伊佐市)に着いたのは9月21日だった。1カ月後、戦死したとばかり思っていた父から電報が届いた。玉砕したサイパン、テニアン両島の間のロタ島で孤立化したことで助かっていた。菱刈駅に迎えにいくと、母の姿がないことに気付いた父は泣き崩れた。
父は30年前に亡くなったが、一緒に帰国したきょうだい4人は今でも皆元気だ。いろいろな人の助けがあったからこそ、と今も感謝している。
(2010年9月6日付紙面掲載)