自宅の庭に建てた平和祈念の碑と豊榮幸雄さん
■豊榮幸雄さん(80)志布志市志布志町
志布志に生まれ、当時の国民学校高等科を卒業後、1944(昭和19)年4月、志願して陸軍少年飛行兵学校(大分市)の門をくぐった。14歳だった。そのころは皆、「軍国少年」が普通。軍隊に行くことが当然と教えられ、疑うこともなかった。
志布志湾には軍艦が出入りしていて、友達と見に出掛けた。飛行機もよく飛んで来たので海軍の飛行兵を希望していた。だが、陸軍から合格通知が先に来たので、陸軍に行くことにした。父母や姉弟に見送られ、大分へ入営のため旅立った。志布志から4人入隊した。
行ってみると、訓練用の飛行機がなく、グライダーにしか乗せてもらえなかった。1年間、パイロットを目指し訓練を受けた。その後、上級の飛行学校に入るのが普通だったが、戦局も厳しくなっていた45年春は卒業自体がなく、訓練2年目に入った。
大分には多くの軍事施設があり、飛行機を隠す掩体壕(えんたいごう)などの土木作業に駆り出されたり、銃剣を担いで訓練したり、普通の陸軍兵士と変わらぬ日々を過ごした。7月、大規模な空襲にも遭い、焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ中、防空壕に逃げ延びた。
先輩の特攻兵が学校にお別れに来たこともあった。あまり年も違わない若者が特攻に向かうのを見送った。先輩が飛行機で学校の上を周回するのを見上げながら、自分たちは手を振ろうとした。しかし、教官が制止し、それができなかった。なぜ彼らに手を振れなかったのか、今でも不条理に感じることだ。
入学が1、2年違っただけで私たちは生き残り、先輩たちは死地に向かった。本当に無情だと思う。それを思い起こすたび、胸が締め付けられる。
8月、別府近くの十文字原に演習に出掛けた。終戦を知ったのは演習地近くの民家。「明日、重大放送がある」と上官から聞き、私たち生徒はラジオのある民家の庭先に整列した。雑音ばかりではっきり聞きとれなかったが、「戦争が終わった」ことだけは分かった。
15日で演習は打ち切りになり、別府へ向かった。その夜、灯火管制が解かれ、別府の街の夜景を目にして驚いた。それまでは真っ暗だった夜景が一変、こうこうと家並みに明かりがともり、見違えるように美しかった。「ああ、平和がやってきた」と実感した。
帰郷し、家業の農業を継ぎ、平々凡々ながら幸せに歳月を重ねてきた。妻に先立たれ、おととし庭先に「平和祈念の碑」を建立した。慰霊の思いを込め、「火の弾丸(たま)をものともせずに征(ゆ)きし先輩(とも) 今の平和を知る由もなく」と彫った。戦争で亡くなった方々のことを忘れてほしくない。二度と戦争を起こしてはならない。
(2010年10月16日付紙面掲載)