ソ連での捕虜生活中、ラゾという町で家屋修理。住民から唾を吐かれ、投石や罵声を浴びる。この町には我々日本人を敵視する特別な事情があった

2025/02/03 10:00
シベリアでの抑留体験をまとめた文集を持つ平群訓志さん=鹿児島市和田2丁目
シベリアでの抑留体験をまとめた文集を持つ平群訓志さん=鹿児島市和田2丁目
■平群訓志さん(89)鹿児島市和田2丁目

 旧薩摩町永野出身。1939(昭和14)年、18歳で神奈川県の陸軍工科学校に入り、20歳で卒業。中国・東安省の第17野戦兵器廠(しょう)に配属され、技術者として兵器の製作や修理に当たった。研修のため東安からハルビンに行った帰り、駅の待合室で終戦の玉音放送を聞いた。

 ソ連軍の捕虜になり、500人の仲間と共にシベリアのスチェバノフカに連れて行かれた。最初の作業は、自分たちが住むための穴掘り。山の斜面にいくつもの穴を掘り、木材で支えてねぐらを作った。

 雪が降る中でも休みなく、ジャガイモ掘りや麦刈り、家畜の世話を強いられた。朝食は薄いスープ、昼食は黒パンがひと切れ。ソーセージ缶があったのは幸いだった。

 46年にスパッスク・ダリニーに移され、レンガ工場で働かされた。このときまでに、多くの仲間が寒さや飢え、病気で亡くなり、300人まで減っていた。

 作業場の近くには、戦中に日本軍が使用していたとりでがあり、毎日昼と夕に発破作業が行われていた。爆破音を繰り返し聞く度、捕虜の惨めさを身にしみて感じた。

 47年秋、ラゾという町に家屋修理に行くことになった。到着すると、住民からの視線がほかの町よりも厳しい。唐突に石を投げつけられたり、つばを吐きかけられたりし、意味の分からない罵声(ばせい)も浴びせられた。

 作業場でも、道具や資材が盗まれ、せっかく修復した家が壊されるなど嫌がらせが続いた。仕方なく重い荷物を担いで行き来する作業を続けていたが、とても悔しかった。あまりのひどさに、ソ連軍の作業監督官も腹を立てるほどだった。

 戦争に負けたとはいえ、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか。ソ連兵に聞いたところ、ラゾには、日本を敵視する特別な事情があることが分かった。

 大戦中、シベリアまで進軍してきた日本軍が「ラゾ」という男をスパイだと一方的に決めつけて捕らえ、機関車のボイラーで焼き殺すという残虐な事件があったらしい。住民は恨みを忘れないよう、地名に彼の名を残したという。

 われわれへの嫌がらせは、日本への報復だった。事情を聞き、日本軍人としてラゾの人たちに申し訳ないという気持ちが生まれた。同時に、もし日本が戦争に勝っていたならば、ラゾの人たちがわれわれに嫌がらせをしたように、日本人も外国人にひどい仕打ちをしていたかもしれないと思った。

 48年12月に帰国が決まり、ナホトカから船で3日かけて舞鶴に到着、再び母国の地を踏むことができた。しばらくは実家の農業を手伝い、平穏な日々のありがたさをかみしめた。

 つらい抑留を経験して思うのは、戦争をしてもいいことは何もなく、むしろ悲しさや憎しみを生むだけということ。ラゾの人たちのような思いをする人が二度と現れないよう、若い人たちには平和な世の中を築いてほしい。

(2010年10月30日付紙面掲載)

日間ランキング >