勇んで向かった激戦の島ブーゲンビル。蛇やトカゲやカエルで飢えを、真っ赤な川の水を口に含んで乾きをしのいだ。後続部隊も援護機もなく、無謀と分かっていても戦うしかなかった

2025/02/17 10:00
地図を指さしながら、当時の戦況を語る高橋龍雄さん=日置市東市来
地図を指さしながら、当時の戦況を語る高橋龍雄さん=日置市東市来
■高橋龍雄さん(90)日置市東市来町美山

 師範学校を出て石谷尋常高等小学校(旧松元町)に勤務していた21歳のとき、召集令状が届いた。「自分まで召集されるとは、戦況は芳しくない」という懸念が胸をよぎった。1年前の徴兵検査の判定は、中学のときの大けがのため国民兵で、今までであれば入隊がなかったからだ。だが「戦地へ赴くのは男として当然」という時代。人並みに国民の責務が果たせると、喜びを感じた。

 入隊から1年後の1942(昭和17)年12月、歩兵第45連隊に配属され、パプアニューギニア・ブーゲンビル島へ。第1大隊砲小隊長の任に就き、約1年間、キエタ周辺の警備を担当。44年3月から、タロキナ岬の米軍航空基地制圧を目指す第2次タロキナ作戦に加わる。

 深いジャングルとバガナ山など2千メートル級の山々が行く手を阻む。長い間、食料補給はなく、マラリアやチフスがまん延するなど状況は最悪。蛇やトカゲ、カエルなど何でも食べて飢えをしのぎながら、切り立った崖を登り下り、敵兵の死体を乗り越えて進み続けた。

 3月8日早朝、一斉砲撃を開始。激しい砲撃戦の末、同郷の友が倒れた。恐怖や人間らしい感情は薄れつつあった一方で、友の死に敵への憎しみだけが沸々とわいてきた。

 真っ赤に染まった小川の水を口に含んで渇きを押さえ、戦闘を続けた。兵力、武器、弾薬に戦車、航空機―。どれをとっても豊富な敵に対し、こちらは後続部隊もなく、援護機は姿すらみせない。無謀と分かっていても、戦うしかなかった。

 すさまじい爆風に押し倒された瞬間、はね返った砲の破片で骨が折れ、右腕がだらりとぶら下がった。痛いとは感じなかった。

 約20日間にわたる戦闘で、部隊は半数近くが死傷し、キエタ付近へ撤退。「日本不利」とみた現地住民が敵側に味方して宿舎へ手りゅう弾攻撃を繰り返すようになり、精神的に追い詰められた。

 元気な将兵は斬り込み隊を結成して、敵地へ襲撃を繰り返したが、戦況が好転するはずもない。自分はけがのために隊に参加できず悔しかったが、それが運命を分けたことを後に思い知る。

 45年7月、決戦準備に入る。決行に備え、敵情偵察に努めた。傷病の重い5、6人には手りゅう弾1発を与えられ、全員一塊となって1人でも多くの敵兵と自爆することになっていた。

 8月15日、敵機が超低空で旋回して終戦を告げた。「本当か」とぼうぜんとする一方で、「やっぱり」と感じた。武装を解除し、連隊旗を燃やした。なかなか焼けなかったことを思い出す。

 翌年2月、神奈川県の浦賀港に上陸。船上から富士山や海岸線が見えたときの喜びはこの上なく、涙がこみ上げた。陸軍病院にしばらく入院し、帰京後は教員生活に戻った。

 日本は多くの若い命を散らした。人を人とみずに相手を虐殺し、それが我にも返ってくるみじめさを思い返す。日本からはるか南方の島で、なぜ青年たちが死ぬ必要があったのか。今でも分からない。はっきりしているのは「いかなる理由でも、戦争は絶対にいけない」ということだ。

(2010年12月12日付紙面掲載)

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