志願した海軍整備兵。「未練が募ってはいけない」…特攻兵とは敢えて言葉を交わさなかった。鐘の音は彼らに届いているだろうか。また、悲しい桜の季節がやってくる…

2025/02/24 10:00
戦闘機の載ったカレンダーを見ながら、当時を振り返る宮後正行さん=日置市吹上
戦闘機の載ったカレンダーを見ながら、当時を振り返る宮後正行さん=日置市吹上
■宮後正行さん(85)日置市吹上町中之里

 桜の季節が嫌いだ。飛び立つ特攻隊員の操縦席に添えられていたその薄桃色の花を見るたびに、当時の記憶がよみがえり、胸が締め付けられる。

 鹿児島市で自動車修理工をしていた17歳のとき、志願兵として海軍に入隊した。20歳の徴兵検査を待たずに志願したのは当然「お国のために」という気持ちからだが、生活の苦しさによる部分も大きかった。当時の海軍は大半が志願兵で占められ、鹿児島県出身者が多かったらしい。

 長崎県佐世保市の第2海兵団で、ロープの結び方や手旗信号など海軍の基礎を学んだ。「月月火水木金金」とはよく言ったもので、休む暇もなくしごかれた。就寝用ハンモックの上げ下ろしは1分以内が決まりで、できるまで何時間でもさせられたのを覚えている。「根性をたたき直す」と、堅い太棒で何度も何度も尻をたたかれた。塩水に漬けて硬くした係留用ロープでひっぱたかれることもあったらしい。あまりのむごさに、家族が見たら気絶したかもしれない。

 整備兵となり、1943年3月、中国海南島に予科練卒業生の機上練習のため新設された黄流海軍航空隊に送られた。事故機の整備に向かう途中、敵の攻撃を受け、頭に被弾した。棒か何かでコツッとたたかれた感じで、痛いとは感じなかった。寝台に手足をくくりつけられ、麻酔なしで手術を受けた。激痛で気を失い、1週間ほど目覚めなかったと聞いた。

 44年6月から任務に就いた沖縄海軍航空隊では、10・10空襲を体験した。その日は、米軍の艦載機が10~20分ごとに、朝から晩まで入れ代わり立ち代わり向かってきた。延べ600機以上が飛んできたと聞いている。

 こちらの機材は、ほぼ使い物にならなかった。飛行機に装備する機銃を木にくくりつけて応戦したが、焼け石に水だった。那覇市はほぼ壊滅。多くの民間人が犠牲となり、遺体を積んだトラックが行き交う様子が目に焼き付いている。

 同隊では、那覇の飛行場からフィリピンのレイテ島に向かう特攻機の給油と整備を担当したことが心に残っている。

 同年12月には第951海軍航空隊に配属され、長崎県大村へ。操縦席の後ろに大きな機銃を積んだ爆撃機が配備され、その機銃撃ちを担当していた。翌年8月9日。すさまじい爆風を感じた。太陽が消え、音も無くなった。広島の情報が入っていたため、「これが原爆か」と思った。

 しばらくして、こっそり機上で聞いた無線で米軍が「日本がポツダム宣言を受諾する。終戦だ」と言っているのを聞いた。デマだと思ったが、間もなく終戦の報が届いた。

 また、悲しい桜の季節が近づく。未練が募ってはいけないと、あえて言葉を交わさなかった特攻隊員たちの顔が思い出される。昨年、地元の寺に平和への思いを込めて、釣り鐘を寄贈した。夕刻に響く鐘の音が彼らにも届いているといい。

(2011年1月17日付紙面掲載)

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