終戦後、両親の故郷に帰ってきた。米軍政下の徳之島、荒れ果てた土地を一から耕した。今の平和は数多くの年配者の労苦の賜物…戦争は絶対にだめだ

2025/03/03 10:00
義兄の遺影を手にする清田和子さん=天城町浅間
義兄の遺影を手にする清田和子さん=天城町浅間
■清田和子さん(77)天城町浅間

 戦争体験はわが子にも話したことはなかった。だが、徳之島をめぐる状況を見て、今のうちに伝えておきたいと思った。

 1933(昭和8)年、東京都葛飾区で生まれた。父南藤円と母ツルは、ともに天城町浅間の出身。私は末っ子で、兄4人、姉1人がいた。

 44年、中学校教員をしていた長兄に召集令状が届き出征した。同年7月、サイパン島で玉砕したという知らせが届いた。一通の電文のみの報告に両親は落胆し、きょうだいも皆、大きなショックを受けた。

 この年の暮れから空襲は激しさを増し、防空壕(ごう)に入ったり出たりの生活が続いた。ある日、壕から出て空を眺めると米軍のB29爆撃機に日本の戦闘機が体当たりし、両機がばらばらになって落ちていくのが見えた。恐ろしさのあまり体がすくんだ。

 45年3月10日の東京大空襲は、防空壕の中にいてもすさまじさが分かるほどのごう音が聞こえ、両親は「これまでとは違う」と話していた。空襲がやみ、外に出ると凄惨(せいさん)な光景が広がっていた。

 江戸川区や江東区の工場地帯が焼け野原になり、川を隔てて、苦痛に叫ぶ人々の声がわき上がるように迫ってきた。大人たちは「川が死体でいっぱいになっている」と口々に語る。土手に登ると、やけどを負い線路沿いに逃げてきた人たちが折り重なって亡くなっていた。まさに地獄絵図を見るような戦争の惨状が脳裏に刻まれ、今でも思い出すのが怖い。

 すぐに、国民学校の3~6年生全員が新潟県魚沼郡に強制疎開させられた。私は当時6年生で、一人だけ家族から引き離された。寺に寝泊まりしながら学校に通い、配給されるイモガラとシャケ缶、わずかな米で作ったおじやが主食だった。

 何も知らぬまま終戦を迎え、疎開先から帰ると、家族は皆泣いて喜んだ。両親は、長男を亡くした悲しみと焼け野原になった東京の状況に、平穏な生活を求めて故郷に帰ることを決めた。

 48年4月ごろ、徳之島に引き揚げ、家と畑作りから始めた。浅間は戦時中、陸軍の飛行場があったため、空襲を受けて家々は焼かれた。滑走路や軍施設として埋め立てられた土地を掘り起こして畑にした。サツマイモと米を作り、魚と物々交換して食べ物を調達した。

 徳之島は米軍政下にあり、両親にとっては精神的、肉体的に厳しかったと思う。父は慣れぬ重労働で無理をしたのがたたったのか同年11月、57歳で死去。その5年後に母も60歳で亡くなった。

 52年、同じ浅間の清田武二と結婚した。夫も兄を戦争で亡くしていた。義兄は戦艦大和を旗艦とする特攻艦隊の駆逐艦に乗船し戦死。66年に勲章が贈られた。ありがたいが、遺骨はもちろん遺品すらなく、家族の無念さは計り知れない。

 昨年、徳之島を揺るがした米軍普天間飛行場の移設問題では、地元JAの婦人部員として先頭に立って反対運動を続けた。それは、戦争体験があるからだ。

 人を傷つけ殺し合う戦争の恐ろしさを知ってほしい。そして、年配の人たちが戦後の復興のために頑張り、平和な社会を築いてきたことを忘れないでほしい。

(2011年2月9日付紙面掲載)

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