「精神打込棒」と書いたバットで叩かれていた18歳の弟は、別れも言えずニューギニアで戦死した。いとこは親に顔だけ見せて特攻へ。戦争は愛する人をただ奪う。

2025/03/10 10:00
「長生きできるのは、弟たちのおかげ」と語る福永美子さん(手前)と重治さん=曽於市末吉町岩崎
「長生きできるのは、弟たちのおかげ」と語る福永美子さん(手前)と重治さん=曽於市末吉町岩崎
■福永美子さん(90)曽於市末吉町岩崎

 戦時下、海軍に入隊した17歳の弟と面会するため、長崎県佐世保市の基地を訪ねた。面会所に「軍隊精神打込棒」と書かれた野球バットのような木材が置かれていた。弟もその棒で尻をたたかれたらしい。「心配するから、母さんには言わないで」と弟から耳打ちされた。帰りの夜行列車で、涙が止まらなかった。

 弟は6人きょうだいの末っ子。私は5番目で、弟とは幼いころから仲が良かった。当時、22歳だった私は熊本県で働いていた。弟は甘い物が好きなので、知人を拝み倒して菓子を手に入れ、何度か面会に通った。

 ある日、「明日も来られないか」と懇願された。しかし「仕事なので難しい」と伝えると、弟はとても寂しそうな表情を見せた。出撃が決まっていたのだろう。それが弟との別れになった。わずか18歳で、東部ニューギニアで戦死した。

 いとこは特攻隊員として飛び立った。弟と同じ佐世保にいたが、鹿屋基地に移動することになり、その途中に岩川(曽於市大隅)の実家に立ち寄った。「顔を見に来た」と玄関先に足を踏み入れただけの、ほんの一瞬の帰宅だった。

 出撃が決まっていたから、親に顔を見せたかったのだろう。「行ってくるから」とだけ言い残して玄関を出たと、伯母が話してくれた。その様子を思い浮かべるだけで、今も涙があふれる。

 弟が戦地に向かった後、出征先の中国から帰国した夫の重治(92)と結婚した。夫は挙式後間もなく、今度は鹿児島市の部隊に召集された。新婚なのでどうしても会いたい。私はその一念で部隊に向かった。

 門に立つ衛兵に夫の名前を告げて面会をお願いしたら、なんとその衛兵が夫だった。おかげで早く話が通じ、面会することができた。その後も頻繁に鹿児島市に通った。

 夫が中国に渡ったのは1939年。小隊長が目の前で銃弾に倒れた話をよく聞かされた。800人ほどの部隊にいた時、八路軍(中国共産党軍)に遭遇し、銃撃戦になったそうだ。

 前日に敵に包囲されたことが分かり、たばこ1本を5、6人の戦友で吸った。久しぶりの紫煙に酔って、ふらふらになったという。夫は前線で戦っていたが、本隊が危なくなり、撤退命令が来た。その撤退途中に目の前にいた小隊長の腹に銃弾が命中した。

 「もうだめだ。先に行け」と促す小隊長を、励ましながら夫らが交代で背負って、段々畑を数百メートル必死に駆け下った。「銃弾がそれていれば、自分が死んでいた」と話してくれた。

 鹿児島市の部隊では、夫は初年兵の教育を担当していた。その教え子ら20人ほどが乗った船が、鹿児島を出港して間もなく撃沈され、悲しんでいたのをよく覚えている。

 戦後、夫婦で一生懸命に牛を育てた。子どもに恵まれなかったので、わが子のように愛情を注いだ。その牛を売ったお金で、弟が戦死した東部ニューギニアへ慰霊に行くことができた。夫も自分の弟が戦死したフィリピンを訪ねた。念願をかなえてくれた牛に感謝している。

 今、こうして90歳まで夫婦で元気に暮らせるのは、戦死した弟たちが守ってくれているおかげ。戦争は愛する人を奪っていく。二度としないでほしい。

(2011年2月16日付紙面掲載)

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