軍歴表など戦争当時の品々を手に話す若松与曽吉さん=鹿児島市上福元町
■若松与曽吉さん(86)鹿児島市上福元町
1945(昭和20)年4月1日、長崎の佐世保港から奄美大島の瀬戸内まで、軍の輸送船団を護衛する小艦艇「第186号海防艦」に一番砲手として乗船していた。当時20歳で、海軍佐世保鎮守府部隊の「佐世保大島間緊急作戦輸送」に従事。800トンぐらいの船に50、60人が乗り組んでいた。
晩、大島海峡へ入った時に米軍の5、6機から襲撃を受けた。少尉が戦死、数十人負傷。輸送船は辛うじて、加計呂麻島の三浦湾にいかりを下ろし物品を陸揚げした。
翌2日午前7時、朝食時を見計らうように米軍グラマン5、6機が飛来した。食事当番や機関兵は艦内におり、砲員は甲板上で大砲の手入れをしていた。敵機が海面すれすれに飛んで来ては低い島影に沿い上昇、急降下するため、音は聞こえるが、大砲も機銃も撃てない。
集中攻撃を受けて、砲身を上下に動かす担当の俯仰手(ふぎょうしゅ)が負傷。船尾は爆弾を落とされて爆発、傾いた。「船が沈む」の声に、前夜の負傷兵も船室から上がってきた。同じ班の負傷した船員1人を、船からつるしたロープを頼りに海上へ降ろし、いかだに乗せた。
いかだを引きながら片手で平泳ぎすること2時間。グラマンが機銃掃射する間、水中に潜ってかわし、戦友に当たらないことを祈った。2キロほど離れた三浦集落へ泳ぎ着いて、2人とも生き延びた。
集落には防備隊の兵たちがいて、山中に食糧倉庫もあり、食事など援助を受けた。往路は輸送船3、海防艦1、駆船艇2だった船団も、復路は半減。空の輸送船で生き残った負傷兵を運んだ。
6日晩に出て翌7日、沖縄へ向かう艦隊とすれ違った。「こりゃ大きな船も行くが」と圧倒された。しばらくしてから水平線に、ものすごい火柱が立った。戦艦大和の最期。攻撃されることなく帰れたのは、敵機が皆大和を追ったためだった。
たどり着いた佐世保港にはB29が来襲、1時間陸に横付けできなかった。上陸した時は、着の身着のまま。みんな作業服姿で靴もなく、はだしの敗残兵だった。
戻ると陸戦隊に編入され、佐世保市早岐で山をくりぬいて陣地構築する任務に当たった。8月9日午前11時すぎ、天気はいいのに遠くで稲光が走った。でも、雷は聞こえない。正午、宿舎へ昼食に帰ったら「長崎は火の海。新型爆弾が落とされた」との話。原爆投下だった。
15日終戦。玉音放送を聴いて「これで命をもらって帰れる」と思った。当時の乗組員は、さまざまな隊からの寄せ集め。遭難したのは佐世保出港の3日後で乗組員名簿を作る最中だったため、いかだの戦友も消息は分からない。
2年前に初めて、近くの西谷山小学校で戦争体験を話した。沈没と原爆に遭遇しながら2度も命拾いしているわけだから「国のため一生懸命やって命を捨てた方々の分まで、できることを何でもやって、ご恩返しをやらにゃいかん」という気はある。国同士で戦争をやることが二度とあってはならない。
(2011年3月2日付紙面掲載)