夏が来るたび、地下足袋越しに伝わった線路の熱を思い出す。伏した遺体の多さに、17歳の私は「ぐらしか」とも感じなくなっていた

2025/04/28 10:00
線路を歩いて向かった出張保線先での空襲体験を語る牟禮オトワさん=阿久根市大川
線路を歩いて向かった出張保線先での空襲体験を語る牟禮オトワさん=阿久根市大川
■牟禮オトワさん(83)阿久根市大川

 阿久根市大川牛之浜の農家に、7人きょうだいの次女として生まれた。小学校を出た後、子守や防波堤造りの仕事を経て、鉄道の出水保線区牛ノ浜線路班に終戦後まで6年ほど勤めた。

 牛ノ浜駅そばに詰め所があった。汽車が揺れないよう、低くなっている線路の枕木の下にバラスを入れるのが仕事。重労働だったが、若い男性は戦争にとられ、作業員は年配の男性が中心。十数人のうち女性は多いときで4人いた。私は体が丈夫だったので、男性に負けないぐらい働いた。

 よその作業員が足りなくなると、出張に出された。期間は20日ぐらいで、私も北九州に行ったことがある。

 1945(昭和20)年7月の末ごろ、班長から「鹿児島市に行ってくれ」と言われた。朝出発し、他の班の人たちと一緒に汽車で饅頭石駅(上伊集院駅)まで行き、その先の不通区間は線路を歩いた。

 しばらく進むと、線路の上で男の人が亡くなっていた。空襲でやられたようだった。「身寄りがいないのかね。かわいそうに」と、仲間と一緒に手を合わせ、先を急いだ。

 鹿児島駅が近づくと、線路脇のあちこちで人が死んでいた。馬も死んでいた。焼けた汽車の下で死んだ人も見た。夕方、宿舎に着くまでに遺体を何十体見ただろうか、あまりの多さにもう「ぐらしか(かわいそう)」とも思わなくなっていた。

 翌朝、作業に出ると間もなく警戒警報が鳴った。空襲警報に切り替わり、近くに掘ってあった防空壕(ごう)に入った。この壕は被害はなかったが、仲間2人が遅れて逃げ込んだ壕は、空襲でコンクリートが崩れて入り口がふさがれ、死者が出た。逃げ込んだところを敵機に見られ、狙われたという話だった。

 夕方になって、足がつぶれるなどしたけが人が助け出された。けが人を担架に乗せ、近くの山に避難した。仲間の遺体は防空壕に残し、「また迎えに来るからね」と声を掛けた。

 夜に入り、迎えに来たトラックの荷台に乗って地元に帰ることになった。道中、空襲で家が燃え、明るくなっているところが見えた。道も悪く、帰り着くのに一晩かかった。

 後に見た資料から、7月27日までの空襲被害の補修に駆り出され、31日の空襲に遭ったのだと思う。結局、保線作業はできなかった。

 それ以前も地元で規模の小さな空襲は見聞きしていたが、こんなに人が死ぬような空襲は初めてだった。当時はまだ17歳。怖いというより「自分さえ助かれば」と思うようになっていた。親に命懸けで戻ってきたと伝えたが、「命があってよかった」とそっけなかった。すでに兄2人が戦死しており、親には覚悟があったのかもしれない。

 暑い時季が来ると、地下足袋を通して感じた線路の熱さを思い出す。この体験を話したのは、子どもが小さいころ以来。平和が当たり前になった時代に育った孫たちにも聞かせてみたい。

(2011年8月7日付紙面掲載)

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