大黒さんは10年前に妻を亡くし1人暮らし。ピアノや生け花、インターネットの囲碁と趣味は幅広い=さつま町虎居
■大黒進さん(87)さつま町虎居(上)
終戦直前の1945(昭和20)年8月から数カ月間、死の危機に何度も直面した。生きて帰れたのは奇跡としかいいようがない。
「ソ連軍が越境して攻め込んできた」と非常呼集がかかったのは、忘れもしない8月9日未明のことだ。私は関東軍第八〇三部隊・第一大隊・第一機関銃中隊所属の二等兵として、満州東部の八面通にいた。ソ連との国境に近い場所だ。当時日ソ間には不可侵条約があり、戦争はないものと思いこんでいた。大変な衝撃だった。あわただしく出発し、丸一日行軍して牡丹江東部に着いた。小高い丘に穴を掘って潜み、ソ連軍を迎え撃つことになった。
間もなく、ソ連軍の戦車隊の攻撃が始まった。そのころ関東軍の兵力の大半は南方戦線に割かれ、われわれの装備は貧弱だった。約千人いる第一大隊の重火器は、口径5センチほどの大隊砲1門に、重機関銃8丁。兵士が持っているのは1発ずつ撃つ三八式歩兵銃。まともに戦える状況ではなかった。
ソ連軍の兵士は、自動小銃でダダダダッと連射してくる。隠れている草むらの草がパッと散り、すぐ近くにいる仲間たちが次々に倒れた。頭の中が真っ白になり、夢中で引き金を引き続けた。考える余裕などない。「やらなければ、自分がやられる」。その一心だった。見ず知らずの他人同士が、理由もなく殺し合う。戦争とは凄惨(せいさん)なものだ。
戦闘4日目の夕刻、千人の大隊は、わずか48人になっていた。いったん後方に退いて、残っている日本軍と合流し巻き返しを図ろうということになり、退却が始まった。
2日後の明け方、牡丹江と思われる市街地に入った。驚いたことに、ソ連兵を乗せたトラックが何台も走っている。これは大変だと郊外へ逃れると、飛行場が見えた。民有地との境界付近に夏草に覆われた壕(ごう)があったので、そこに身を潜めた。夜行軍の疲れでウトウトしていたら、いきなりパン、パンと銃撃の音がした。ソ連兵だ。驚いて一目散に逃げ、やっとの思いでトウモロコシ畑に身を隠した。点呼を取ると、半分の23人に減っていた。
「暗くなったら、飛行場にとまっている戦闘機に手投げ弾を投げて爆破しよう」。だれからともなくそう言いだし、夜を待った。しかし夜になっても飛行場の周辺は照明であかあかと照らされ、見張りの番兵が数多く立っている。とても近づくことはできない。やむなく計画を中止した。
以降は西へ西へと行軍を続けた。道々中国人の家に押し入って食糧を強奪し、飢えをしのいだ。
中国人の集落に入り、仲間2人と共に、ある家に宿泊したときのこと。夜中に小用で起きると、その家の馬がいなくなっているのに気付いた。「おかしい」。危険を感じ、一緒に寝ていた2人を起こして逃げようと玄関を出たところで、襲われた。軍刀を握っていた1人は左脇腹を撃たれたが、そのまま必死で逃げた。襲ってきたのは、その集落の村人たちだ。後にして思えば、なぜか日本軍の軍服を着ている人が多かった。私たちのように逃げてきた兵士を襲い、服を奪っていたのだろう。
いつ、どこで襲われるか分からない。死の恐怖と隣り合わせの逃避行が続いた。みな痩せこけ、髪は伸び放題。真っ黒に汚れた顔に、目だけがらんらんと光っていた。そんな私たちの後ろに、いつごろからか、赤い腕章を着けた日本兵2、3人が付いてくるようになった。
(2011年8月12日付紙面掲載)