鉄道兵として北九州から中国南部へ 9ヵ月かけて本隊と合流して1カ月後に戦争が終わった。引き揚 げた古⾥はどの街よりも酷い焼け野原だった

2025/06/16 10:00
羽生光次郎さん
羽生光次郎さん
■羽生光次郎さん(86)鹿児島市南新町

 1944(昭和19)年9月、門司鉄道局西鹿児島工場に勤務していたときに召集され、同月28日、福岡県門司市(現北九州市門司区)で陸軍第2独立鉄道工作隊に入隊した。20歳になったばかりだった。

 同工作隊は、蒸気機関車や貨車など鉄道車両の修理を担当する技術工兵部隊で、「鉄道兵」と呼ばれていた。同時に入隊した仲間20人は多くが、九州一円の機関区などから集められた国鉄職員だった。

 中国南部にいる本隊に合流するため、入隊4日後の10月2日には関釜連絡船で朝鮮半島に渡り、軍用列車を乗り継いで1週間で南京に着いた。南京や漢口(現武漢)で初年兵教育を受けた後の45年4月、少尉を隊長に、桂林付近にいる本隊へと向かった。

 鉄路が無事なところは鉄道で、そうでないところは歩いて進んだ。航空機の攻撃を避けて夜間に移動し、日中は寺や民家の軒下で休んだ。

 小銃と15発の弾も携行していたが、実際に敵に向けて撃ったことはない。食糧は、軍から支給された岩塩を中国人農家に米と交換してもらい確保した。漢口や衡陽では、日本製の9600型機関車を修理した。気心の知れた仲間と、勝手知った機関車を直すのは楽しかった。

 曲がりなりにも軍隊組織だったが、悪名高い私的制裁を受けたことは一度もない。行軍中、仲間の一人が疲れて動けなくなった時、下士官が率先して一番重い銃を担いだのにも感心した。生え抜きの軍人が部隊長だけだったことも影響していたのかもしれない。7月中旬にようやく本隊に合流できたが、1カ月後には衡陽で終戦を迎えた。

 45年9月から8カ月間、漢口の収容所で国民党軍や八路軍の監視下に置かれたが、待遇は良かった。上官が相手側と掛け合って、鉄道の維持管理に協力していたからだと思っている。日本の食糧不足を聞き、収容所で大きな乾パンを作って持ち帰ることを許されたが、材料も中国側が提供してくれたようだ。

 46年9月、引き揚げ船が鹿児島市に着いた時、焼け野原になった街を見て絶句した。中国で見たどの街よりもひどい惨状で、自分たちが恵まれていたことを痛感した。

 ところで、私の父は薩摩錫(すず)器の店を営んでいたが、37年の日中戦争勃発を境に、原料のスズの入手が難しくなり、廃業を余儀なくされた。長男で後継ぎだった私も家計を助けるため鹿児島商業学校を中退し、門司鉄道教習所西鹿児島技工養成所に入り鉄道員になった。

 この進路変更がなければ、私は歩兵として召集されていたはずだ。体力もなかったから戦地で命を失っていた可能性が高い。そう考えると、人の運命というのはつくづく分からないものだと思う。

 戦後66年、当時の仲間も次々亡くなり、戦争兵の存在を知らない人も増えている。多くの死者を生んだ戦争の中でも、銃を撃ったこともない兵士がいたことを若い人たちにも知ってほしい。
(2011年8月14日付紙面掲載)

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