太平洋戦争末期、わが家は若き隊員のたまり場だった。古里や家族のことを明るく話してくれた。ただ、戦況や出撃に関しては無言…そして何も言わず写真だけを渡し散っていった。あのアルバムを焼いたのが今も惜しまれる

2024/09/16 10:00
鹿屋基地の隊員たちとの交流を語る大場スエさん
鹿屋基地の隊員たちとの交流を語る大場スエさん
■大場スエさん(87)鹿屋市田崎町

 いつも通り午前5時半に起きて、ご飯を炊くためまきに火をつけた。そのときバリバリバリと空気を引き裂く音がして外に出ると、グラマンの群れが超低空飛行で機銃掃射していた。遠く上空にはB29の編隊が迫っていた。飛行機音もせず、警報も鳴らなかったから驚いた。慌てて庭に掘っていた防空壕(ごう)に妹と駆け込んだ。機銃掃射と爆弾投下は丸1日続いた。1945(昭和20)年3月18日。それが鹿屋への初めての空襲だった。

 以来、航空基地を狙った空襲が連日行われた。家は基地のすぐそばで、生きた心地はしなかった。緊張にさらされていた4月12日、空襲の合間を縫うように幼さが顔に残る4人の若者が、飛行服を抱えて自宅を訪ねてきた。洗濯するから井戸を使わせてほしい、という。こんな余裕がまだあるのか、とほっとしたのを覚えている。

 一つのたらいを順番待ちする間、話が弾んだ。4人は一式陸上攻撃機の搭乗員で18~19歳。近くの山中の兵舎に住んでいた。4人は仲が良く、あすをも知れぬ命ながら明るかった。連れだって洗濯によく来た。妹と「4羽ガラス」と呼んでいた。

 次第に4人以外の隊員もやってくるようになり、家は洗濯や息抜きする隊員のたまり場になった。おにぎりやお茶を出してお世話した。出征していた兄もどこかで世話されているかも、と思うと気持ちが入った。隊員のご両親にあてて、元気でいることを伝える手紙もよく書いた。

 みんなふるさとや家族の話はよくするものの、戦況や出撃に関することは一切語らなかった。空襲に耐えかねて「今こそ連合艦隊が出撃すればいいのにどこにいるの」と問うと、だれも何も言わなかった。すでに壊滅しているのを知っている隊員たちは、私を失望させたくなかったのだと思う。

 特攻隊員についてもそうだった。姿を見せなくなった人がいたため「あの人どうしたの」と聞くと、「あいつは…」と言ったまま次の言葉が出てこなかった。特攻隊の実態は知らなかったが、庭に植えていたランの葉に「散る桜残る桜も散る桜」など刻みつけた文字を見つけ、うすうす感じるようになった。「この人たちは神さま」と思って一層心を込めた。

 何も言わずに写真を渡されることが多くなった。出撃への覚悟だったのだろう。「若桜」と表紙に書いたアルバムを手作りし、「これに張っておくからね」と明るく振る舞うのが精いっぱいだった。

 そのアルバムは進駐軍が鹿屋に上陸する日の朝、山に逃げるとき自分の持ち物と一緒に焼いた。踏みにじられたくなかったからだ。今は惜しまれてならない。

(2010年7月4日付紙面掲載)

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