東京の軍需工場で働いた。寝泊まりした寺はシラミが大量発生し下痢や血便に襲われた。栄養失調寸前で空襲があっても動く力はもはやなく、先輩が防空壕へ担いでくれた。直後に爆弾が直撃、九死に一生を得た安心感で気を失った

2024/09/30 10:00
戦争体験などをまとめた自分史を執筆中の橋元静蔵さん=いちき串木野市
戦争体験などをまとめた自分史を執筆中の橋元静蔵さん=いちき串木野市
■橋元静藏さん(80)いちき串木野市長崎町

1944年(昭和19年)、串木野の照島国民学校を卒業後、家が貧しかったため14歳で東京の軍需工場に就職した。航空機部品の製造工場と説明を受けたが、機密事項だったのか詳細は知らされず、鉄を加工する作業に就いた。

 45年3月10日、東京にB29爆撃機の大編隊が襲来。空は真っ赤に染まり、B29をはっきりと確認できた。当時住んでいた巣鴨の寮は被害を免れたが、大空襲の後、寮周辺への爆撃も激しくなった。

 就寝中、同僚が「隣に火がついたぞ」と騒ぎ出した。シュッシュッと音がして、すぐ近くまで焼夷(しょうい)弾が迫っていた。「逃げるぞ。ここは危ない」。必死に叫び、外へ飛び出した。20人の寮生は皆10代。恐怖心よりも、夜の街を逃げるという好奇心が勝っていた気がする。どこをどう逃げたか覚えていない。気付いたら林の中にいた。

 事の重大さを痛感したのは夜が明けてから。見渡すと、一面焼け野原だった。放心状態の集団は寮を目指し歩き始めた。目に飛び込んできたのは、子どもを抱きかかえたまま焼け死んだ母親の無残な姿。65年たった今もその光景が頭から離れない。寮は外壁だけ残り、内部はすべて焼け落ちていた。

 間もなく食糧が尽き、鹿児島に戻った。突然の帰郷に両親は驚いた。やせ細った顔を見て、最初は本当に自分の息子か分からなかったようだ。数日後、軍から上京を促す電報が届いた。軍の命令には絶対服従の時代。父の勧めもあり、仕方なく東京へ戻る身支度を始めた。

 東京は周辺部を残しほとんどが焦土と化していた。連れて行かれたのは古い寺。60人の地方出身者が集められ、再び工場への出勤が始まった。その後も夜間空襲が続いた。シラミが大量発生し、睡眠不足に拍車を掛けた。激しい下痢に襲われ、血便に悩まされるようになった。

 栄養失調寸前で歩くことすらできなくなり、寺で寝ていると、グラマンの爆撃音が聞こえてきた。徐々に寺へと近づいてくる。逃げたかったが、体力は残っていなかった。「これで人生も終わりか」。初めて死を覚悟したその瞬間、救助のため、職場の先輩が寺に戻ってきてくれた。防空壕(ごう)に担ぎ込まれた直後、寝泊まりしていた本堂の一部が小型爆弾の直撃を受けた。九死に一生を得た安心感からか、防空壕の中で気を失った。

 それから程なく、工場の広場で終戦を伝える玉音放送を聞いた。泣きながら地面をたたき出した先輩たち。学校で教え込まれた「日本は神の国だから、戦争は負けない」という神話が自分の中で崩れ去った瞬間だった。

 鹿児島に戻り、串木野駅で降りると、松林のすき間から海が見えた。海への視界を遮るはずの建物はすべて焼かれていた。何のためにこんな田舎まで攻撃する必要があったのか。怒りというより情けなさがこみ上げてきた。戦争は必ず弱い者が犠牲となる。私たちの惨めな体験を若い世代に知ってほしい。

(2010年7月11日付紙面掲載)

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