司令部壕跡に戦後初めて訪れた下本地光二さん。入り口は柵で閉じられている=鹿屋市新生町
■下本地光二さん(84)鹿屋市田崎町
旧制鹿屋中学校を繰り上げ卒業し、佐世保の海軍施設部に18歳で入った。建築技工士として一からたたき込まれ、1年後には武官転用試験に受かり下士官となった。
施設部402部隊に配属され、行き先は思いもしなかったふるさと鹿屋。1945年1月1日に赴任した。軍人は隊長以下6人だけ。あとは約600人の工員で編成された。その大半は朝鮮半島から徴用され、ほとんどが日本語を話せなかった。約200人ずつの3個中隊に分かれ、防空壕(ごう)造りや、爆撃で穴が開いた基地滑走路の補修などに当たった。
中隊長として担当したのは司令部が入る壕造りだった。設計図を見ると、幅約2・5メートル、高さ約2メートル、奥行き約100メートルの横穴を山腹に2本掘り、一番奥を横筋でつなげる構造。作戦室や暗号室、通信室などの職務室がある穴と、寝泊まりできる居住区の穴に分かれていた。
赴任してすぐ3交代24時間の突貫工事を始めた。工員たちは宿舎と現場を往復する毎日で、外泊や外出は禁止。重労働の作業をスムーズにしたい思いもあって、自分の判断で時折、外出や外泊許可証を2、3人にこっそり渡し息抜きさせた。
外出が見つかったり工員が逃走したりすれば自分は厳罰を免れない。「必ず帰ってこい。逃げたらどこまでも追いかける」とくぎを刺したものの、もしものときは処分されるのも覚悟だった。
幸い逃走した工員はいなかった。信頼関係ができていたからと思ったが、「嫌な上官がいたら代わりに殺してやるよ」とささやかれたときはぞっとした。裏返せば、自分がそんな目に遭うかもしれないことを意味していた。工員は表向き反抗的な態度を見せなかったものの、扱い方次第で変わる緊張感をはらんでいた。
壕の入り口には白い布を取り付けた。隊長の説明によると、米軍は強い光を放つ特殊爆弾を開発し、一木一草焼き尽くす威力があるとのことだった。白い布は光を遮るためだった。まだ広島に落とされる数カ月前で、今思えば軍は原爆の正確な情報を早くから得ていた。ただ、取り付けたのは普通の布。どれだけ有効だったか分からない。
工事がまだ半分ほどのころから、特攻作戦を主力とする第5航空艦隊司令部が地上施設から徐々に移ってきた。軍人や高等女学校挺身(ていしん)隊員らが壕の中を行き来し、大混雑した。自然と特攻出撃や戦果の情報が耳に入った。壕の近くには三角兵舎もあり、出撃待機する特攻隊員も多く見た。
帰ってこなかった特攻隊員のことを思うと心が痛み、終戦から今日まで壕に足を運べなかった。今回体験談を話したのを機に、初めて出掛けてみると草木に覆われていた。案内板もなく、荒れ果てた状態にがくぜんとした。「戦争を二度とやってはいけない」という歴史の生き証人として保存してほしい。
(2010年7月16日付紙面掲載)