北朝鮮の鉄道寮で玉音放送を聞いた後、暴動と略奪が始まり、身に着けた服や靴まで奪われた。南への脱出行は食べものもなく、体はシラミだらけで発疹チフスがまん延。遺体が次々に投げ込まれた塹壕からは腐臭が漂い、獣やカラスが群がった

2024/10/14 10:00
65年前の過酷な体験に思いをはせる生駒岩夫さん
65年前の過酷な体験に思いをはせる生駒岩夫さん
■生駒岩夫さん(86)さつま町求名

 「SLを運転したい」。夢を抱いて今の北朝鮮に渡ったのは16歳のとき。朝鮮総督府交通局で雑役から始め、かまたき、機関士助手と昇進。19歳で機関士になった。仕事はきつかったが、やりがいがあった。

 終戦の日。鉄道寮の200人が、1個のラジオを囲んで玉音放送を聴いた。日本が負けることは全く頭になく、初めは理解できなかった。しかし、すぐに敗戦の意味を思い知らされた。暴動が起き、略奪が始まった。

 「40年近く、われわれを搾取した報いだ」。現地の人は日本人に、積もり積もった怒りをぶつけた。荷物はもちろん、身に着けた服や靴まで奪われた。

 「ここにいては危ない」。同じ職場で働いていた同郷のいとこ、友人と3人で南へ脱出することにした。夜行の貨物列車のシートの下に忍び込み、終着駅の咸興まで南下。そこの鉄道寮に取りあえず身を寄せた。

 建物は避難民ですでに満杯だった。寝る場所を探して、洗面所のコンクリート床の片隅をようやく確保。それでもあおむけに寝る広さはなく、横向きで重なるようにして寝た。

 一緒に来た友が急死したのは、1カ月もしないころだ。発疹(ほっしん)チフスだった。「一緒に故郷へ帰ろう」と励まし合い、ともに苦労を乗り越えてきた大切な友。いとこと遺体をこもに包み、松林まで運び埋めた。悔しくてたまらなかった。

 食べる物はなく体はシラミだらけ。劣悪な環境で発疹チフスがまん延し、毎日多くの人が死んでいった。廊下には遺体がごろごろ転がっていた。しばらくして近くに大きな塹壕(ざんごう)が掘られ、そこに遺体が次々に投げ込まれるようになった。腐臭が漂い、獣やカラスが群がった。あの異様な光景は、今も忘れることができない。

 あちこちを転々としながら南を目指し、翌年の3月に国境近くの町にたどり着いた。38度線を越えるには、山越えをしなければならない。現地の案内人に金を払い、真っ暗な夜の山に入った。

 ところが少し行くと、案内人は明かりを消して姿をくらました。初めから金だけ取るつもりだったのだろう。闇の中、道を探して歩き回った。体が弱りせきが止まらなかったが、ソ連兵に見つかるのが怖くて必死でこらえながら歩いた。

 途中、3、4歳の幼女が泣いているのに出会った。親に置き去りにされたのか。かわいそうだったが、そのときは自分も精いっぱいで助ける余裕がなかった。あの子はどうなっただろうと、ずっと気になっている。

 山を下り、やっと南に入ったときのうれしさは言葉にできない。釜山から帰国船に乗り、4月5日に博多港に着いた。

 戦争が終わってからも多くの人が命を落とし、帰国の夢を果たせなかった。軍の上層部は先に帰国したと後で聞き、憤りを感じた。国民の生命、財産を守るのが国の責務ではないか。生き永らえた者として、できるだけ多くの人に戦争の愚かさ、悲惨さを伝え続けていきたい。

(2010年7月17日付紙面掲載)

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