アルバムは空襲で焼失。友人から複写した写真を保管する池亀カズエさん
■池亀カズエさん(84)西之表市東町
種子島高等女学校を卒業した1942(昭和17)年以降、島に残り銃後の備えとなる数々の奉仕作業に従事した。とにかく延々と歩くことが多かった。
中種子町増田の海軍飛行場の建設のときはトラックに乗って行ったが、西之表市への帰途、しけのため海沿いの道が通れなくなった。別の山道は車が通れない。だから付近の民家に泊めてもらうか、歩いて帰るかという選択を迫られた。
外は日が暮れかかっていた。私は早く家に帰りたかったので後者を選んだ。20キロほどあっただろう。疲れて歩きながら居眠りした。着いたのは午前2時か3時ごろだった。
十数キロ離れた中種子町に近い「鍋割」と呼ばれる山中に、長さ約2メートルの板を数枚背負い1日がかりで行ったこともあった。数十人の行列で、途中から田んぼのようなぬかるみを進んだ。一歩ずつ足を取られる。前を行く人の足跡に足を入れると踏み出しやすかった。
背負った板は、私が住む市街地の公民館をばらしたものだ。柱や食料を運ぶ人もいた。たどり着いた所は空が隠れるほどの密林。そこに大工さんがいて家を造っていた。床に畳もない。天井も半分以上開いている。そこにランプをつるし10人足らずで寝泊まりした。
家の周りは、樹木に覆われ視界は遮られていたが、川で洗濯をした際、上下流に人が見え、あちこちで同様の家造りをしていることを知った。
アメリカが上陸したときに島民が逃げ込む所だったのか。後々、「集団自決のための家だった」という人もいた。一生懸命、自分の墓造りに参加していたようで、思い出すと今でも悲しくなる。
終戦直後にも、兵士が駐屯していた古田地区から弾丸を入れた木の箱を背負い、市街地まで9キロほど移動した。何十キロの重さだっただろう。これが戦中戦後の体験で一番苦しかった。縄が深く背中に食い込み、足のまめが痛んだ。市街地の家並みが見えたとき、うれしくて自然と涙がぽろぽろこぼれた。
1945年3月18日の空襲で、自宅は全焼した。その前に竹林に逃げていたから助かった。夜、家のあたりを見に行くと、空が真っ赤に燃え上がっていて、家の形は残っていなかった。ぼうぜんとして、涙も出なかった。
一日一日生きていくことで一生懸命で作業も黙々とこなした。撃沈された輸送船から海岸に次々と漂着した死体を、担架のような竹のもっこで運んだこともあった。川岸に山積みにされ焼かれた。もうもうと煙が上がり、ただ手を合わせた。
大正15年生まれで年齢は昭和と重なる。18~20歳の青春はなかった。アルバムもすべて焼けた。自分の若いときを証明するものは何も残らなかった。10年ほど前、同級生から入学、卒業写真などを借りて複写した。今はそれが宝物だ。
友人の多くは亡くなり、同じような体験をした人は減った。聞いてほしいという思いが日に日に高まり、胸の中にしまっておけなくなった。若い人たちには、二度と戦争を起こしてほしくない。
(2010年7月23日付紙面掲載)