「周囲の人の支えがあったからこそ93歳まで生きてこれた」と感謝する園田テルさん=伊佐市大口鳥巣
■園田テルさん(93)伊佐市大口鳥巣
羽月村園田(現伊佐市大口鳥巣)の農家の跡継ぎだった夫・正人さん=当時(26)=に2度目の召集令状が届いたのは、1943(昭和18)年9月末の真夜中だった。
翌朝には、村社だった熊野神社で出征式があり、正午発の列車で鹿児島市の陸軍歩兵45連隊に向かう。慌ただしく準備に追われ、夫婦で語り合う時間などなかった。夫からは「これから家のことはお前が切り盛りしてくれ。頼む」との一言だけ。大口駅での見送りでも言葉は交わせなかった。
しゅうとめとは、「鹿児島には長くおらんだろうから、近いうち面会に行こう」と話していたが、入営に付き添った私の父は、戻ってくると、「そのまま戦地に向かったよ」と話した。驚いた。「鹿児島まで行けばよかった」。しゅうとめとともに後悔した。
その時は知るすべもなかったが、夫が乗った輸送船は出征してすぐ、同年10月8日に、フィリピン沖で沈められていた。正式な戦死公報が来たのは翌年夏だったが、43年冬に、一緒に出征した人の父親が訪ねてきて、船が沈められた話をされた。しゅうとめの両手がひざの上でブルブル震えていた。
当時、私は27歳。結婚4年目で3歳の長男、乳飲み子の1歳の長女がいた。夫の死はショックだったが、それよりも夫が残した“遺言”を守り、「懸命に働いて、子ども二人としゅうとめに、ひもじい思いをさせない」との思いが先に立った。
夫が最初の召集を受けた40年秋には、長男を出産したばかりで水田まで手が回らず、収穫前の稲を病虫害で全部駄目にした苦い経験があった。
同じてつを踏むわけにはいかない。仲人だった人に頼んで田すきの特訓から始めた。当時の農作業は隣組での共同作業が多かったから、人に迷惑をかけてはいけないとの一心で朝から晩まで懸命に働いた。仲人や集落の方々もいろいろと助けてくれた。今も仲人の墓に感謝を欠かさないでいる。
45年4月には、種子島からの疎開児童を預かった。集落の園田橋たもとにあった茶屋で4年生の女児2人を引き取って家に連れてきたが、一言もしゃべらない。夕飯にタケノコの煮しめを出すと、「わっ」と泣き出した。緊張していたのだろう。
「母子家庭だからといって不自由な思いは決してさせない」と誓い、疎開児童には、家族よりもいいものを食べさせたつもり。今もその一人とは交流が続いている。
国は「銃後のことは心配するな」と言い戦場に送り出したが、その銃後も皆、生きていくための“戦い”に必死だった。今の人たちには理解しがたいかもしれないが、そこに個人の感情が入り込む余地はなかった。
だから、自分には今でも「夫婦」というものがよくつかめていない。70(昭和45)年に大病を患ってから長男夫婦と長女夫婦の間を行き来する生活を続けているが、2組の夫婦の間のやり取りを眺めながら、「夫婦」の関係を学んでいる。個人の思いが大事にされる今の世の中は幸せだ。
(2010年8月1日付紙面掲載)