満州時代の写真を持つ緒方利光さん。体には今も手榴弾の破片100個余りが残ったままだ=伊佐市菱刈花北
■緒方利光さん(86)伊佐市菱刈花北
太平洋戦争末期、満州北西部のハイラル(現・中国内モンゴル自治区フルンボイル市)要塞(ようさい)を守備する関東軍独立混成第80旅団第558部隊の上等兵だった。
1945(昭和20)年8月9日早朝、非常呼集でソ連侵攻が告げられた。部下12人を預かる分隊長として、市街地から北東6キロにある101陣地に赴いた。44年3月に志願入隊した自分にとっても、部下にとっても、初の実戦。緊張した。
12日まで平穏な日々が続いた。標高200メートルほどの高台にある陣地からは、ソ連軍の隊列が続々南を目指していくのが見えた。だが上官からは、こちらから戦端を開かないよう、命令されていた。食べ物は1日カンパン1袋。飢えに悩まされた。
13日、敵部隊が迫り、戦いが始まった。敵は戦車壕(ごう)にわざと戦車を落とし込み、その上を別の戦車や歩兵に渡らせて迫ってくる。ソ連兵は自動小銃を装備しており、彼我の火力差は圧倒的だった。至近距離から手榴(しゅりゅう)弾を投げ込まれることも多く、前線の塹壕(ざんごう)は敵味方の死者が累々で、踏み場もなかった。やむなくその上を行き来した。
自分をかわいがってくれた垂水出身の肥後淳軍曹もみけんを撃ち抜かれ戦死した。冬場、氷点下50度以下になるハイラルは、地下を1メートルも掘れば凍土が出てくる。やむなく横穴を掘って遺体を埋葬した。
16日午後3時ごろ、分隊員のたこつぼ(小さな壕)を見回る途中、50センチと離れていない場所に敵の手榴弾が落ちた。とっさに左手でかばったが大量の破片を顔や上半身に浴び、目が見えなくなった。運よく眼球には当たっておらず、視力は2日後に回復したが、胸や左手は大きくはれ、壕の中で寝込んだ。
19日夕、負傷兵に自決用の手榴弾が渡され、最後の総攻撃を仕掛ける前に、ソ連軍から「日本が無条件降伏した」との情報が伝えられ、がく然とした。武装解除の時、600人いた陣地の兵の数は100人まで減っていた。陣地にあった鋼鉄製の砲塔はすさまじい砲火で吹き飛ばされていた。
収容所で傷が化膿(かのう)し、軍医に「左腕は切断しなければ駄目だ」と言われたが、「手がなくなると家業の農業の手伝いができなくなる」と拒んだ。消毒液に定期的に浸してもらったのが奏功して腕を失わずにすんだが、今も体内には100個以上の破片が残る。
その後、負傷兵としてチチハルの陸軍病院に送られたが、健康な人は皆シベリアに送られた。病院でも、多くの将兵が発疹(ほっしん)チフスで亡くなっていった。遺体は病院裏の穴に投げ捨ての状態。すぐに地元民に服をはぎ取られ、あわれだった。
職業軍人にあこがれ、兄の反対を押し切ってまで志願した軍隊だったが、実際に体験した戦場とその後の境遇は悲惨このうえなかった。帰国できたのは幸運だったとしかいいようがない。
いつかハイラルに戻り、横穴に眠ったままの仲間を供養したいと願っていたが、脳梗塞(こうそく)を患いリハビリの毎日だ。遠く、めい福を祈っている。
(2010年8月3日付紙面掲載)