満州で迎えた終戦。待っていたのは捕虜収容所生活だった。極寒、奴隷のような屈辱…脱走を企てた兵士は銃殺された。亡きがらはこの手で葬った。今も彼らの声が聞こえる気がする

2024/11/18 10:00
出征時の写真を手にする高吉栄さん=南九州市頴娃町上別府
出征時の写真を手にする高吉栄さん=南九州市頴娃町上別府
■高吉栄さん(87)南九州市頴娃町上別府

 1945(昭和20)年8月、自分が所属する満州第1国境守備隊第1地区隊は、満州東部東寧で、強大なソ連軍と玉砕覚悟で戦っていた。

 ついに26日、隊に終戦の知らせが入り、「直ちに停戦し、ソ連軍の指示に従え」との命令が下った。隊は陣地の頂上に白旗を掲げて投降した。ソ連軍によって武装解除された後、いったん金蒼まで連行された。

 その後、ソ連軍から「日本に帰るため、港のあるところまで行く」と言われ、昼夜分かたぬ行軍が始まった。満州の夜は夏場でも寒い。それでも「日本に帰れる」との希望を胸に必死に歩いた。しかし2週間後に到着したのは、ハバロフスクの捕虜収容所だった。

 収容所の周囲には高さ約3メートルの有刺鉄線が二重に張られ、四隅の望楼には武装した監視兵がいた。ソ連側は「有刺鉄線に近づけば射殺する」と通告した。

 収容所は丸太造り。寝床は寝返りも打てないほど窮屈で、収容所に着いた翌日には、鉄道の枕木の敷設作業に駆り出された。

 すでに10月に入り、極寒の凍土を掘る作業は困難を極めた。時折、ソ連兵に銃剣を突きつけられ、銃床で小突かれながらの作業は奴隷のような扱いだった。言いしれぬ屈辱感があった。

 一日の作業が終わっても、くつろぐ場所はなかった。夕食は手のひらほどの小さな黒パンと、コーリャンが10粒ほど入った岩塩のスープのみ。ドラム缶でつくったペチカ(暖炉)があるだけの部屋に、折り重なるようにして寝た。

 多くの日本兵が寒さと重労働、飢えで栄養失調になった。朝起きてこない兵士の様子を見に行くと、息絶えてすでに冷たくなっていたことも、一度や二度ではなかった。

 そんな地獄のような日々の中、相次いで悲劇が起きた。一つ目は収容所に到着した夜だった。夜中に小用に出た日本兵が、行軍の疲れもあってか、ふらふらしながら場所を探しているうち、有刺鉄線に近づき望楼の監視兵に狙撃された。

 まだ童顔の残る若い兵士だった。あとで聞くと撃たれた後、「母に会いたい。お母さん…」とつぶやきながら息絶えたという。われわれはソ連軍に抗議したが、「見せしめのため」と一方的な答えしか返ってこなかった。

 その1週間後にも悲劇は起きた。妻子を開拓団に残して召集された兵士が、作業現場から脱走を企てた。しかし近くの民家で捕らえられ翌朝、点呼で整列した日本兵全員の前に引きずり出された。ソ連将校の号令で、「ダーン」と一発の銃声が響き渡り、兵士の鮮血が降り積もった雪の上に散った。

 2人の亡きがらは、われわれの手で凍土に埋められたが、今でもそのときの光景がまぶたを離れない。彼らの声まで聞こえるような気がする。

 戦争を経験した人も少なくなり、その悲惨さや悲しみ、愚かさは日を追って風化しつつある。この体験を語り継ぎ、平和な世の中が続くことを願ってやまない。そのことが非業の死を遂げた多くの戦友に対する償いでもあると思う。

(2010年8月12日付紙面掲載)

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