郵便物の仕分けをしていると頭上に爆音が近づいてきた。戦争は終わったはずなのに。機銃が掃射され目の前で木片が飛び散った。そこにいれば死んでいた。グラマンが去った後も怖かった

2024/12/02 10:00
熊本逓信講習所の卒業アルバムを手に経験を語る久留景夫さん=霧島市国分中央1丁目
熊本逓信講習所の卒業アルバムを手に経験を語る久留景夫さん=霧島市国分中央1丁目
■久留景夫さん(81)霧島市国分中央1丁目

 1944(昭和19)年7月から鹿屋郵便局に勤務していた。電信課で、鹿児島市の鹿児島電信局から空襲警報や警報解除を受信すると、鹿屋市役所に専用電話で連絡するのが主な仕事だった。

 旧制福山中学校を3年で中退。少年飛行兵を志したが身長が足りなかった。43年、熊本逓信講習所に入所。1年で修了し15歳で鹿屋に配属となった。

 44年の暮れが近づくにつれ、警報の受信回数が増加。年が明けるとほとんど毎日になった。夜間に宿直をしていても隣の部屋からカタカタと音がすると跳び起きて内容を読み取った。連絡するとすぐに市の係はサイレンを鳴らしていた。「受信し損ねたら首どころではすまない」との思いから、常に緊張感があった。

 戦局が悪化するにつれ、鹿屋基地への攻撃も多くなった。外回りの同僚が配達中に機銃掃射を受け、塹(ざん)壕(ごう)に逃げ込んだが、足を撃たれて、足を引きずりながら帰ってきたこともあった。

 空襲警報が出されると、郵便局の支払資金をすべて赤い資金袋に入れて防空壕に逃げ込んだ。壕の中から約50機のB29の編隊を見たことがある。銀色の飛行体がきれいで、今でもはっきりと目に焼き付いている。

 45年3月ごろ、鹿屋基地からは特攻機が連日、出撃していた。学徒動員されていた牧之原郵便局長の長男も配属され、ある朝鹿屋郵便局を訪ねてきた。「おれは明日、特攻で沖縄に行く。親たちにもその旨、よろしく頼んだぞ」と言い残し、足早に出て行った。翌朝早く、基地が見渡せる場所に行って、特攻機を見送った。

 それから15日後に、妹さんが訪ねてきて「兄は特攻で戦死した」と知らされた。基地に連れて行ってほしいとのことだったので、一緒に基地に行った。彼が使用していたベッドの所に行って、二人で泣いたことは忘れられない。

 終戦から3、4日して、同僚と郵便局で郵便物の仕分けをしていると、爆音が聞こえてきた。戦争は終わったはずなのに、と耳を疑ったが、グラマンが機銃掃射をした。4メートルほど前に着弾し木片が飛び散った。あそこにいたら、死んでいたかもしれないと、爆音が去った後も怖かった。

 米軍が高須港に上陸して鹿屋基地に来るとのデマが流れ、女性や子どもは避難しなければ危ないと言われた。わたしもリュックサックを背負って徒歩で高隈、百引、市成を経て、牧之原の実家まで一昼夜かけてたどり着いた。2カ月ほど後に、職場から電報で呼び出され鹿屋に戻った。

 48年3月まで鹿屋で勤務、九州各県の郵便局で働き94年に退職した。逓信講習所の同窓会を60年以上開いている。だが、40人余りいた同期生も少なくなり、今秋が最後になるかもしれない。同じ経験をした仲間と会う機会が少なくなると思うと寂しい。

 50年余りの職場生活を振り返ると、戦争中の1年間は緊張感から密度が濃く、戦後の3年間分に匹敵するような経験だった。孫をはじめ、若い人たちに当時のことを教え込んでいきたい。

(2010年8月18日付紙面掲載)

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