北満州の憲兵隊で青酸カリが配られた。「責任をとるのはおれだけでいい」と自決した隊長の遺志をくみ生きる決意をしたものの、抑留されたシベリアは極寒と飢えと苦役の日々だった

2024/12/09 10:00
憲兵時代の写真を持つ前田盛次さん=鹿児島市西陵1丁目
憲兵時代の写真を持つ前田盛次さん=鹿児島市西陵1丁目
■前田盛次さん(88)鹿児島市西陵1丁目

 串木野の遠洋マグロ漁船で働いていた1941(昭和16)年に19歳で徴兵検査に合格。43年2月、鹿児島市の伊敷にあった陸軍西部18部隊に入隊した。同年4月に北満州ハイラルの第558部隊に移り、第一機関銃中隊に配属された。隊員には鹿児島県出身者が多く、相撲甚句で仲を深めたのを覚えている。

 44年に試験を経て憲兵になり、新京の憲兵教習隊で10カ月間訓練。45年4月、北満州のチチハル憲兵隊本部に配属となったものの、まもなく終戦を迎えた。

 隊員には自決が促され、大豆ほどの青酸カリが配られた。隊長が「責任を取るのはおれ一人でいい」という遺書を残して拳銃自決。遺志をくみ、「絶対に内地に戻ろう」と決意した。

 その後ソ連軍の捕虜となり、シベリア・チタの山奥に送り込まれ、広い森の中で休みなく伐採や運搬作業を強いられた。入居する建物がなかったため、自分たちで山の斜面に穴を掘って木材で支え、その中で寝泊まり。毎日ノルマが課され、1年後には切る木がなくなってしまった。

 配給食料は小さな黒パンと水のようなスープのみ。空腹のため眠れない夜が続いた。ヨモギなどを食べて飢えをしのいだが、冬場は草木もなく、600人程いた仲間の1割は栄養失調で亡くなった。道路脇に並ぶシラカバの墓標に、「明日はわが身」と思った。

 考えるのは食べ物のことばかり。仲間と「日本に帰ったら温かいみそ汁が食べたい」「じゃあおれはぼたもちだ」などと話し、その時だけは腹が満たされた気分だった。

 チタの次はハバロフスクの第16収容所に移された。昼間は建築や農作業をさせられ、夜には取り調べが待っていた。憲兵の立場で聴取されたが、機密事項などは知らなかったため、何も言えることはなかった。

 一通り取り調べが済むと、3日間拘置所に入れられた。すきま風が吹き込む2畳ほどの掘っ立て小屋。冬だというのに毛布は1枚しかもらえず、室内につららができるほどの寒さに震えた。憲兵の先輩がこっそりと毛布を投げ込んでくれたのは本当にうれしかった。

 拘置所での寒さがたたったのか、発熱のためソ連軍の病院に入院。3カ月間熱が下がらず、肺の病気と診断されて日本へ送られることになった。

 生きて戻れるとは思っていなかったので、47年6月にナホトカから舞鶴港に着いたときは涙が止まらなかった。シベリアで死んだり、抑留されたままの戦友のことを考えると、自分だけの帰国は申し訳ない気もした。

 戦争体験はこれまで語りたくなかったが、余生が短くなり、後世に伝えなければいけないと思うようになった。若い人たちには平和で誰も悲しむことのない時代を築いてほしい。

(2010年8月19日付紙面掲載)

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