人間魚雷乗りの特攻隊員が島に流れ着いた。無口で穏やかな青年。でも特攻を果たせなかった「不運」のせいか、食事の時にしか笑顔を見せなかった

2025/02/10 10:00
戦地の夫から届いたはがきを手に当時を振り返る叶生直子さん=鹿児島市西坂元町
戦地の夫から届いたはがきを手に当時を振り返る叶生直子さん=鹿児島市西坂元町
■叶生直子さん(86)鹿児島市西坂元町

 1924(大正13)年、徳之島の伊仙で生まれた。地元の小学校で教職に就いたが、43(昭和18)年春、結婚を機に退職。夫は当時の伊仙村長の次男で京都の大学に通う学生だった。島から船で3日かけ嫁いだのを思い出す。新婚生活もつかの間、夫は同年11月、学徒動員で鹿児島市にあった陸軍歩兵第45連隊に入隊。私は島に帰郷し、夫の実家で「村長の家の嫁」として暮らし始めた。翌44年6月に長女を授かった。

 戦争で最も記憶に残っているのは同年秋、人間魚雷に乗っていたという特攻隊員が、伊仙の犬田布岬に流れ着いた時のこと。当時、旅館や宿泊所はなく、村長だった義父宅に運ばれ1カ月ほど滞在した。目に見える大きなけがはなく、義母が食事を作り、嫁の私がそれを部屋へ運ぶ役だった。無口で穏やかな青年だったが、特攻を果たせなかった「不運」のせいか、笑顔を見せたのは食事の時ぐらい。義父には護衛が付き、軍の要人の出入りも多かったが、青年がどこから出撃し何を標的にしたのかなど、誰も教えてくれず、私からも何も聞けず、事情は分からずじまいだった。

 45年になると、住宅の電線が切られ、ランプ生活。電柱もなくなり、軍が山中で陣を張るためではないかとうわさ話をした。貴重品の供出も始まり、「戦争を勝ち抜くためなら」とスズの調度品など“家宝”まで皆惜しげもなく差し出した。4月ごろには、天城にあった飛行場への空爆が激しくなり、集落から山へ避難するよう軍から指令が出た。

 時局はいよいよ本土決戦の様相を帯び、沖縄に上陸した米軍の艦砲射撃の爆音は、昼夜を問わなくなった。隊列を組み本土空襲に向かうB29爆撃機のごう音も、天と地を裂くようで耳を覆った。拳を握りしめ、憤然たる思いでガジュマルの木の下から米軍機を見上げるものだった。本土空襲の残り弾で島の小学校、村役場周辺の民家などは機銃掃射を浴びせられ、亡くなった人もいた。

 夜間は探照灯で脅かされる生活。稲やみその貯蔵庫だったかやぶきの高倉は標的にされぬよう解体され、大きな4本の柱は、庭の裏に造った防空壕(ごう)のはりに転用した。空襲警報が鳴ると、親族だけでなく、近所の人も駆け込んだ。

 古いラジオから流れてくるのは「敵艦船撃沈」「B29撃墜」と日本軍の戦果ばかり。事実を知らされず、優勢を信じ喜んでいた姿はなんとこっけいなことか。ただ、半ズボンにワラ草履姿の伊仙の駐屯兵を目にするにつけ、「これで敵と戦えるものか」と内心では戦況を危ぶむ自分もいた。夫は満州などを経て広島の通信部で被爆したが、命をつなぎ復員。米軍統治下の島へは同年暮れ、密航船で帰ってきた。

 家に残されていたのは老いた親と女子ども。妻や母親は神社に祈り、出征家族の陰膳(かげぜん)を欠かさなかった。空襲がないときは畑仕事に励んだ。空腹に耐え、笑顔で頑張った。家族を養い、国を守ったのは女性たちでもあったと思う。

(2010年11月4日付紙面掲載)

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