後輩の前で学童疎開について話す原田詮さん=南種子町中平小学校
■原田詮さん(73)南種子町中之上
1945(昭和20)年4月から約4カ月、蒲生(姶良市)に学童疎開した。中平国民学校(現中平小学校)2年生になったばかりで、初めは遠足気分だった。自動車や船に乗れて海が見られると。
兄、姉ときょうだい3人で疎開に旅立つ日が近づくと、厳しい父親が優しくなった。母親は着物をほどいてリュックサックや防空頭巾を作っていた。出発前夜はごちそうで、あまり目にしない真っ白いご飯だった。
出発の日。父親が3人を集めて言った。「蒲生に行けば『疎開児童さま』と丁寧にされるから心配するな」。「行って参ります」と告げ家を出ると、泣きじゃくる母親がはだしで飛び出してきて私を抱きしめた。もう二度と会えないと思っていたのかもしれない。
同校の疎開児童は2~6年の224人。教師、児童の世話をする保護婦合わせて20人が付き添っていた。トラックの荷台に乗り、西之表の港に向かった。荷台はすし詰めで、空襲を恐れてか、目隠しのため周りを木が覆っていた。
初めの2カ月は、幾つかの公民館に分かれての集団生活だった。今でいう避難所のような所。私は兄姉と一緒でさみしくなかったが、一人っ子は片隅でよく泣いていた。しかし徐々に食糧不足が深刻になり、腹が減って親のことを思う余裕もなくなるような状況だった。
今では家畜飼料となる大豆の搾りかすを食べた。クワやウメの実を拾った。農家が干しているサツマイモの輪切りをポケットに入れ走って逃げた。盗んだのが見つかると連帯責任で、全員が先生からトゲのある枝でたたかれた。
寝泊まりする公民館は出身集落単位で違った。ある日、私たちの集落から米が届いた。一緒にいた他集落の人に見つかると、分けないといけない。隠して寝静まった後に、音をたてないで、自分たちだけで生米を食べた。変な味だったと思うが、当時は何でもおいしかった。
同じ集落でも、下級生から食糧を取り上げるいじめもあった。守ってもらうため、あらかじめ上級生に魚を差し出したりした。
近くの学校に通ったが、勉強どころではなかった。空襲警報のたび、大クスのある神社に逃げ出した。校庭で遊んだ記憶もない。友達もできなかった。
赤痢が流行し死者も出た。体が骨と皮で腹だけが膨れた児童が増えた。着物にしらみがわき、わきの下は血だらけ。小さな卵をつぶすため着物の縫い目を石でたたいたりした。
3カ月目から農家に分宿した。私を含め多くの子どもたちはかわいがってもらったが、受け入れ先によっては過酷な農作業が待っていて、「疎開児童さま」どころか、差別的に「疎開人」といわれることもあったと聞く。受け入れ先からすれば、負担が増えて大変な面もあったのだろう。
中平小と蒲生小は姉妹校となり、修学旅行で行き来を続ける。私は十数回、両校の児童に疎開時の話をしてきた。何でも手に入るぜいたくな時代だが、世間ではいじめ、自殺が後を絶たない。命を大切にして、辛抱する気持ちを持ってほしい。要望があれば、体の続く限り体験を伝えていく。それが私なりの蒲生への恩返しと思っている。
(2011年5月31日付紙面掲載)