鹿児島大空襲での避難の様子を語る岩崎勉さん=長島町平尾
■岩崎勉さん(81)長島町平尾
後に鹿児島大空襲といわれた1945(昭和20)年6月17日の夜。当時15歳で、鹿児島市に出ていて武町にある学校の寮で寝ていた。突然、同級生に起こされ「逃げろ」と言われた。空襲だとは思ったが、気が付いたら両親の写真と学生証、財布を取り、蚊帳を片付けていた。部屋の戸締まりもしていた。どうしてあのような行動を取ったのか分からない。外に出ると「こっちに来い」という声が聞こえたので、校庭にあった防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。
防空壕には70~80人はいたと思う。下着姿の同級生や兵隊もいて、まったく身動きがとれなかった。上空ではいくつもの敵機が旋回し、爆弾が落ちる音が何度もした。周りは相当な火事になっていたようだ。しばらくたつと、防空壕に火の粉が入ってきた。すると誰かが「ここは危ないから、学校のプールへ逃げろ」と叫んだ。
それからは死にもの狂いで走った。高さ7メートルはあったと思われる塀を乗り越え、プールを目指した。どのようにして塀をよじ登ったか覚えていないが、敵機が機銃を撃つ音や、校舎が燃える光景はしっかりと記憶に残っている。とにかく命がけだった。
プールに着くと、何も考えずに飛び込んだ。間もなく敵機が近づいて来たため、すぐに水中に潜った。息苦しくなると顔を上げ、機銃の音がしたり火の手が上がるとまた潜った。一晩中、その繰り返し。プールには学生だけでなく、近くの住民も逃げ込んでいて、みんなそうしていたと思う。人が多いのは気付いたが、他人を気にする余裕なんてなかった。
プールの中では、「銃弾に当たらず、火事に巻き込まれないように」と祈り、「長島の実家に帰りたい」と願った。怖かったが、防空壕の中で身動きもできず焼け死ぬよりはましだと思った。というより、ほかに逃げるところもなく、どうすることもできなかったというのが正直なところだ。
夜が明けると、街は一面、焼け野原と化していた。服が焼けてやけどを負い、裸同然の人。赤ちゃんを抱えたまま立ち尽くす母親もいた。あんな光景は夢でも見たことはなかった。
運よく、鹿児島市に出ていた姉=大平ハルエさん(86)、長島町平尾=と会うことができた。うれしかったけど、抱き合って喜ぶようなことはなかった。そのような雰囲気ではなく、お互いが「生き延びていた」と確認するだけで十分だった。そんな時代だった。
それから長島に戻るため、今の上伊集院駅まで姉と二人で歩いた。誰かから蒸したジャガイモを2個もらった。おいしかったことよりも、こんな非常時にイモをくれる人がいたことがうれしかった。
とにかく空腹だった。駅で買った弁当は小麦の赤い飯だったのを覚えている。途中で郷里の人5、6人と出会い、ともに今の阿久根市の折口駅から黒之瀬戸まで歩いた。船で長島に渡り、それからまた歩いた。親せきの家に泊めてもらい、何とか実家にたどり着くことができた。
今、私の命は多くの人に助けられたものだと思う。あのまま防空壕に残っていたら、息もできずに死んでいただろう。プールに逃げていなければ今はなかった。6月になると毎年、あの空襲を思い出す。
(2011年6月10日付紙面掲載)