幼心に刻まれた恐ろしい思い出を語る瀬戸下勝男さん=姶良市東餅田
■瀬戸下勝男さん(73)姶良市東餅田
終戦を迎えた1945(昭和20)年8月は、旧根占町の神山国民学校(現神山小学校)2年生だった。学徒動員や戦地を踏んだ体験はないが、戦火におびえながら過ごした恐怖の日々の記憶は幼心に刻まれている。
生まれ育った同町川北では、大きな空襲こそなかったが、上空を航空機が編隊飛行しながら、激しい空中戦が繰り広げられた。米軍機が飛来するたびに家の裏の防空壕(ごう)に避難し、プロペラ機の爆音にびくびくしながら過ごした。
自宅は雄川の近くにあった。空から薬きょうが落ちてきたり、米軍機が銀紙の束をまいたこともあった。のちに、この銀紙は通信妨害のためだったと聞かされた。2キロほど離れた市街地では、家の中にいた同級生の祖母が、機銃掃射によって死亡するという痛ましい出来事も起きた。
港近くの空き地には爆弾が落ち、巨大な穴がぽっかり開いていた。旧根占、田代町境付近の畑に米軍機が墜落したと聞き行ってみると、乗員1人の遺体が埋められていた。
終戦が近づくころには米軍機の襲来も激しくなった。学校へ通学できなくなり、集落の倶楽部(くらぶ)(公民館)で授業を受けた。倶楽部では上級生と下級生に分かれ、午前と午後、交代で勉強した。紙不足も深刻だった。習字の手本書の裏など無地の場所を見つけてはメモを取っていた。
実家のあった小さな集落には、30世帯ほどが暮らしていた。山手のシラス崖に掘った防空壕で、住民みんなが2泊ぐらいしたとき、祖父が「シラス崖は崩れるのが不安だ」と言って中に入らず、入り口付近で寝ていた姿が目に焼き付いている。
トラックなどが通れる広い幹線道路には、人が1人か2人入れるほどの穴(われわれは「たこつぼ」と呼んでいた)が、約50メートルおきに掘られていた。これは、米兵が上陸してきたときに備え、竹やりで突くために隠れる場所であったと聞いた。
45年の正月には、新年のお祝いとして天皇陛下から下賜があり、うすいコッペパンを二つもらったのを覚えている。霧島への学童疎開の話も出ていたが、結局実現することはなかった。
玉音放送が流れたときは、ラジオのある本家にみんなが集まっていた。雑音で声が聞き取りにくかったが、幼心には「あっ、終わったんだな」という思いしかなかった。しばらくして、戦地から帰った父親と再会したが、恥ずかしさの方が大きく、すぐには近寄ることができなかった。
終戦後は、各家庭に代々伝わる家宝のような刀類もすべて提出させられた。何とか隠そうとしたが、米軍には探知機のようなものがあるとのうわさが流れ、みんな泣く泣く差し出した。
また、幼いころのトラウマ(心的外傷)だろうか、終戦後、小学校を卒業するころまでは、航空機(特に編隊を組んで飛ぶとき)の爆音を聞くと、恐怖で身がすくむ思いが続いた。
終戦までは疑うこともなく、「鬼畜米英」をたたきこまれ、戦地へ赴く人々を小旗を振って見送っていたが、思えば恐ろしい話だ。平和のありがたさを知る今、自分の孫たちが出兵することなど到底考えられない。
どんな理由だろうと“いい戦争”があるはずはない。無差別に互いを殺し合う戦争は、二度と引き起こしてはならないと思う。
(2011年6月10日付紙面掲載)