飛行兵を志願し、決死の思いで着いたシンガポール 増える空襲…防空壕の作業中に「玉音放送」を聞く。猛烈な脱力感の中、復員まで2年…圧倒的な物量差を知った「負けるべくして負けた」

2025/04/21 10:00
当時の写真などを手に体験を語る宇都口栄市さん=出水市上鯖渕
当時の写真などを手に体験を語る宇都口栄市さん=出水市上鯖渕
 1939(昭和14)年に出水尋常高等小学校を卒業。6人きょうだいで、次男は41年に海軍予科練へ、三男は43年に陸軍少年飛行兵になった。長男だった自分は42年、長崎県佐世保市の海軍工廠(こうしょう)へ徴用された。長男は徴用されないと聞いていたので驚いた。

 海軍工廠では造船部で船体や部品づくりを行った。日給1円ほどで週1回休みはあったが、毎日4、5時間の残業はざら。食糧難で弁当も麦飯とするめや昆布のつくだ煮だけだった。腹が減って仕方がなかったので、実家に食べ物を送ってくれとはがきを出したこともあった。母が面会に来て持ってきてくれたチマキがおいしかったのが印象に残っている。

 徴兵検査前に軍に入ろうと、43年に陸軍飛行兵を志願。無事合格し44年4月、松江市の航空隊に入隊した。整備担当として約3カ月訓練を受け、南方派遣を命じられた。当初は行き先も分からず、家族との面会もなく巡洋艦に乗り込んだ。27隻の船団が夜間に出航したとき「ああ、これで最後か」と思った。後で知ったが、この前の船団は魚雷でやられたそうだ。

 1週間後、シンガポールに到着し、タイ国境近くの飛行場大隊に配属された。しかし制海空権を奪われ補給は途絶えていた。飛行機もなく、整備兵ながら歩兵同様の訓練ばかりだった。

 下士官候補生志願を勧められ、45年2月ごろ、シンガポールの教育隊に入った。当時は戦況が悪化。空襲も多く、たこつぼを掘って逃げ隠れすることが多かった。訓練も戦車の下に爆弾を投げ込む肉弾攻撃が主だった。

 8月、大きな防空壕(ごう)づくりをしていたとき帰隊命令が出され、玉音放送を聞いた。「頑張れ」との内容だろうと思っていたが、途切れ途切れに聞こえてくる放送が終戦を告げるものだと分かった。これまで勝つことだけを信じていたので、猛烈な脱力感に襲われたのを覚えている。

 数日間は部隊にとどまり自主的に武装解除したが、捕虜にされるとかスマトラに連れて行かれるとか、いろんなうわさやデマが飛び交っていた。しばらくして、シンガポールから退去命令を受けた。ジョホールバルとクアラルンプールの中間あたりで、40~50人の仲間とヤシの木でつくった小屋で数カ月暮らした。米や調味料がほとんどなく、湯飲み1杯ほどの雑炊を1日2食で過ごした。カタツムリやヘビも食べた。

 その後イギリス軍の管理下に置かれ、飛行場の滑走路整備に従事した。ダンプカーやパワーショベルなどの重機が、あっという間に造成していく様子を見て、日本は負けるべくして負けたのだと実感した。

 47年8月、シンガポールから船で復員した。船酔いに苦しみながら2週間後、長崎県の港に着いた。帰ってきた喜びで感無量だったが、小舟で物乞いに来る多くの人に衝撃も受けた。

 今でもあちこちで戦争しているが人の命は一つ。戦争は絶対してはならないということを後世に伝えたい。
(2011年7月15日付け紙面掲載)

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