“助かったはずの命”に浮かぶ黒いあざ――なぜ、あれほど人命は軽かったのか。遺骨を抱えた17歳の私が見た原爆の非道

2025/05/05 10:00
被爆体験を語る奥田静男さん。高齢化で3年前に解散した県原爆被爆者福祉協議会奄美支部長も務めた=奄美市名瀬小浜町
被爆体験を語る奥田静男さん。高齢化で3年前に解散した県原爆被爆者福祉協議会奄美支部長も務めた=奄美市名瀬小浜町
■奥田静男さん(83)奄美市名瀬小浜町

 1945(昭和20)年8月9日は、朝から長崎市飽(あく)の浦町にあるボイラー工場で仕事をしていた。いつも大きい騒音が響いていた工場内で、すさまじい爆風を感じた。取りあえず近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだ。約3・2キロ離れた長崎市松山町の上空で原子爆弾が爆発した瞬間だった。

 17歳で徴用され、44年から長崎の工場で働いた。叔母の家に9歳上の姉ヨシと世話になっていた。叔母の家は爆心地に近い駒場町(現松山町)にあった。

 市街地から避難してきた人は「長崎駅前のガスタンクが爆発した」とうわさしていた。翌朝、家に向かった。爆心地に近づくにつれ、死体がどんどん増えていく。死体の上を歩いているような感じだった。皮膚が焼けただれた人がとぼとぼ歩き、道ばたに座った人がかぼそい声で「水を」と頼んでいた。

 仕事に出ていた姉といとこ、叔父とは家の近くの防空壕で再会できた。いずれも大きなけがはなかった。だが家にいたはずの叔母は近くの川で遺体で見つかった。

 みんなで北に離れた時津村(現時津町)に避難した。叔父と毎日、爆心地付近に通い行方不明になった家族を捜し続けた。戦争が終わったことも分からなかった。何日後だったか、食糧をもらおうと並んでいる時に戦争に負けたことを知った。

 戦況が不利でも、「最後は神風が吹く」と信じていた。徴兵検査に不合格だったことが恥ずかしく、徴用の令状が届いた時は「やっと国のために働ける」と誇らしく感じたほどだったが、敗戦のショックの一方で、「やっと島に帰れる」とも思った。

 数日後、姉といとこ、叔父に異変が起きた。小さな黒っぽいあざができて、全身に広がっていく。高熱が出て、ぐったりしてきた。姉は8月29日、いとこは翌日に息を引き取った。叔父も9月10日に亡くなった。3人とも同じ症状だった。新型爆弾の毒ガスにやられたと思っていた。

 人の感覚はマヒするものだ。最初は街に漂う腐臭が気になったが、次第に慣れてくる。子どものころは葬式の後などに死への恐怖感を抱いたものだが、死体が周囲を埋め尽くすような状況では、死に対する感覚もマヒした。

 ただ、がれきを集めて姉を火葬する時は寂しくてつらくて怖かった。まともに煙を見られなかった。しばらくして強烈な臭いに気づいた。足元に別の遺体があった。

 姉や叔母たちの遺骨を持って、奄美に帰ったのは11月だった。姉たちの最期を家族に報告し、夜は両親の間に入って川の字になって眠った。涙が止まらなかった。

 鹿児島へ向かう汽車の中で自分の体に出ているあざに気づいた。猛烈な吐き気にも襲われた。幸い回復したが、いつ病気になるか、家族は大丈夫か、とずっと悩み続けてきた。

 初めて見た被爆地の光景は忘れられない。核兵器は人類を滅亡させる。なぜ、あれほど人間の命が軽かったのか。命の重さは、時代によってこれほど変わるものなのか。戦後66年の平和の尊さを実感する。

(2011年8月8日付紙面掲載)

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