女子挺身隊として、空襲を避けつつ列車通勤。敵機が見えると停止・消灯し去るのを待つ…そんな状況が幾度も。本当に、生きた心地がしなかった

2025/05/19 10:00
志布志高等女学校時代の写真などに見入る牧愛子さん
志布志高等女学校時代の写真などに見入る牧愛子さん
■牧愛子さん(83)志布志市志布志町帖

 1944(昭和19)年2月、志布志高等女学校の最終学年で卒業式を1カ月繰り上げ、女子挺身(ていしん)隊として配属されることになった。学級40人のうち半数は長崎の造船所へ、そして私を含む残り半数は鹿屋の海軍航空廠(しょう)へ、それぞれ配置が決まった。

 長崎へ行った級友たちはその後、原爆に遭遇。1人は運悪く被爆し、17歳で命を落とした。別れの日にはそんな未来など知る由もなく、ただ「お国のために」と互いの健闘を祈り、送り出した。

 鹿屋では、鹿屋高女や高山高女、鹿児島第一高女などの同年代の女子生徒と一緒になって、工場や事務の仕事に就いた。女子専用の若竹寮に入り、毎朝工場まで鉢巻き姿で防空頭巾を肩に掛け、挺身隊の歌をうたいながら駆け足で出勤した。

 製図の部署に配属された私は、工場で危険な仕事をすることはなかったが、友達の多くは一般工員と同じくエンジンやプロペラなど造る現場で油まみれになって働いた。中には機械にはさみ、指を切断した人もいた。

 〈若き日を鉢巻締めて敬礼し 我が青春は鹿屋の基地に〉

 翌45年になると戦況はいよいよ悪化し、鹿屋にも空襲が続いた。工場は防空壕(ごう)に移された。私は寮からの勤務ではなく、志布志の実家から鉄道で通うようになった。食料も乏しく、物資も滞るようになった。

 空襲を避けながらの鉄道運行で、敵機影が見えると列車は停止、消灯して去るのを待つ、というような状況を幾度も経験した。「本当に、生きた心地がしなかった」

 志布志港に近かった実家は大きな屋敷で、父は教員をしていた関係から、一部を陸軍の事務所に供出していた。軍艦などが入ると兵隊がお風呂を借りに来るなどしていた。無邪気に遊んでいた顔見知りの男の子たちが、少年飛行兵(予科練習生)となって訪れ、それを見送ることになった。

 13歳上の実兄、一雄も出征することになり、千人針をして見送った。中国・徐州作戦などに従軍した兄は、幸い終戦前に退役となって志布志に戻ってきたが、少年飛行兵の中には戻らなかった人も多い。

 〈召され征く君を送りてひたすらに 武運長久祈る朝夕〉

 8月15日、玉音放送は聴かなかったが、鹿屋航空廠は大騒ぎだった。デマが飛び交い、「米軍が鹿屋目指して上陸した」と持ちきりになった。「女子どもはすぐに逃げろ」と言われ、兵隊と友人らと約10人で歩いて志布志を目指した。

 真夏の照りつける日差しの下、8時間余り歩き続け、ようやく志布志にたどり着いた。どこをどう歩いたのか覚えていないが、大崎のくにの松原に出たとき、目の前に広がった海の光景が焼き付いている。家に帰り着き、顔は真っ赤でゆでだこのよう、全身くたくただった。

 戦後、結婚し3人の子どもを育てあげたが、振り返るとあのころの時代のすさまじさ、厳しさは言い尽くせない。平和になって、本当によかったと思う。20年ほど前から短歌を始め、歌誌「はなさい」に参加。折にふれ戦争体験などを歌に詠むようになった。平和のありがたさをかみしめて。

(2011年8月10日付紙面掲載)

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >