「くじ」で偶然助かった沖縄。すぐにマニラへ向かうと、密林の中の敗走が待っていた。「命の恩人」の軍医長は自決、戦友も射殺され、さまよった

2025/05/26 10:00
家族から贈られた高松信義軍医長の写真を持つ川畑義照さん=霧島市牧園町三体堂
家族から贈られた高松信義軍医長の写真を持つ川畑義照さん=霧島市牧園町三体堂
■川畑義照さん(86)霧島市牧園町三体堂

 牧園青年学校を卒業後海軍を志願し、広島県の衛生学校普通科練習部を経て1944(昭和19)年9月中旬、佐世保海軍病院に配属になった。しばらくして、私を含む同年兵3人は沖縄方面海軍司令部付を命じられた。

 沖縄に着いて3日後、本土に帰る人々を乗せた輸送船に1人乗ることになった。志願者はなく、同年兵の一人がくじで選ばれた。1カ月後、私も本土に向かうことになり、輸送船で疎開する人と那覇港を出発、鹿児島港に着くと、先に向かったはずの友人はいなかった。米軍に撃沈されて亡くなったことは後から知った。沖縄に残った同僚も戦死した。

 佐世保に戻ってしばらく後の44年12月31日正午、病院長から「2時半出発の病院船で比島(フィリピン)作戦に参加する」と命令が下った。船に乗り込み、45年1月4日、マニラ港に上陸。2日後、集会で上官から配置命令があり、「B基地」配属となった。そのときは誰も分からなかったが、B基地組は転進組だった。マニラを脱出し、北部ルソン島に向けての敗走が始まった。

 指揮系統は機能せず、生き残るため皆が必死だった。そんな時、高松信義軍医長と一緒になった。私より六つ年上の25歳だった軍医長は、明治時代の名医の子孫で東京出身。生活面が器用ではなかったため、私が自然と身の回りを世話した。やし油で炒めた焼きめしや、果物を採ってきて、食べてもらった。おいしいと言って見せた笑顔が忘れられない。私がマラリア、赤痢を患った時、軍医長の私物の薬で助かった。同じ病気で亡くなった者は多かった。

 密林の中に小屋を作り、軍医長を筆頭に10人ほどが住み着いた。食料は食べ尽くし、生きる希望を失って自決する者もいたが、誰も止めようとはしなかった。このままでは餓死するしかない。軍医長に「先に行きましょう」と促すと、「ここでいい」と言った。離れたくなかったが、心を鬼にして先に進むことにした。すると軍医長から「お前も行くか」と小銃、手投げ弾とともに、大事に1個だけ残していた紅ザケの缶詰をいただいた。軍医長が自決することは分かっていた。

 5人で山の中をさまよった。食べ物を求め平野に向かった。空き民家があり、一晩過ごした翌朝、子馬がいるのに気づいた。殺して食べようと、銃で撃った。近くの木に登って見張っていると、銃声に気づいた米兵5人とフィリピン人の民兵3人が近づいてくるのが見えた。慌てて隠れたが、米兵らは銃を乱射、3人は即死した。私ともう1人は、手投げ弾を持って近くの溝に隠れた。見つかれば自爆するつもりだったが、難を逃れた。

 2人で山中をさまよう中、敵に会ったら自爆すると決めた。平野に煙が見え、伏せて近づくと、日本の陸軍兵がいた。1カ月前に戦争が終わり、日本が負けたことを知らされた。

 多くの戦友を失い、何度も死にそうになった。戦争は勝者も敗者もダメにする魔物。その恐ろしさを後世に伝えたい。

(2011年8月11日付紙面掲載)

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