ソ連の巡察、中国共産党軍の強制連行…生き残った私たち日本人をかくまってくれたのは中国人。「ここに残れ」。帰国を惜しんだ涙、深い隣人愛を決して忘れない

2025/06/09 10:00
大黒さんは10年前に妻を亡くし1人暮らし。ピアノや生け花、インターネットの囲碁と趣味は幅広い=さつま町虎居
大黒さんは10年前に妻を亡くし1人暮らし。ピアノや生け花、インターネットの囲碁と趣味は幅広い=さつま町虎居
■大黒進さん(87)さつま町虎居(下)

 「もうとっくに戦争は終わった。私たちはソ連軍の収容所に居るが、近く日本に帰してもらうことになっている。あなた方も一緒に来ませんか」

 満州東部の八面通から牡丹江へと逃げ、さらに西へ行軍していた関東軍第八〇三部隊・第一大隊の私たちを、その日本兵たちはしきりに勧誘した。あのソ連がそんなに甘いはずはない。私たちは相手にしなかった。だが、いつの間にか隊を抜け出す者が相次いだ。彼らは日本へ帰れたのか。シベリア送りになり、強制労働をさせられたのではないだろうか。こうして最後には、3人になってしまった。鳥取出身の宮脇少尉と鹿児島の谷山出身の鶴田軍曹、それに私だ。

 1945(昭和20)年10月半ば、水田で脱穀をしている朝鮮人家族に出会った。私たちを見たご主人が驚いて「今ごろどうしたんですか。戦争はとうに終わりましたよ」と言う。そして、近くの日本人がいる村を紹介してくれた。吉林省の横道(おうどう)河子(かし)という場所だった。

 村には日本兵16人と民間人2人がいて、焼酎工場の一角に寝泊まりしていた。私は仕事を探し、趙春発(ちょうしゅんぱつ)という人の営む食堂で働くことになった。水くみやまき割り、皿洗いなどの雑役だ。

 村の中国人たちはとても親切だった。ソ連の巡察が来るという情報が入ると、われわれを田舎に連れて行ってかくまい、終わると迎えに来てくれた。そんなことが2度ほどあった。 

 年が明けて2月ごろ、八路軍(中国共産党軍)が村に入った。日本人全員が強制連行され、金山の穴掘りをさせられた。過酷な環境下で発疹チフスが流行し、鶴田軍曹が死んでしまった。これで大隊の仲間はとうとう宮脇少尉と2人になった。4月に入って突然八路軍がいなくなり、再び村に戻った。

 それから少しして、待ちに待った邦人引き揚げの情報が入ってきた。「村にいては取り残されてしまう。吉林へ出よう」と日本人の間で話がまとまった。

 しかしこのことを知った食堂の主人・趙さんが「日本は今、衣食住が乏しく、大変苦労していると聞く。だからお前は残れ。住む家も嫁さんも俺が世話して、何も不自由はさせないから」と、涙を流して引き留めてくれた。胸がいっぱいになった。しかし、故郷には年老いた両親が待っている。心苦しかったが、そう言って断った。

 日本の敗残兵が中国でひどい目に遭ったという話も聞くが、中国は儒教の国である。このような深い隣人愛が、国民性としてあるのではないかとも思う。村を出るときには、村民の多くが村はずれまで見送ってくれた。あの光景は今も忘れられない。

 吉林で帰国の手続きをしてもらい、北支のコロ島からアメリカの上陸用舟艇に乗った。千人近い人が乗り、女性のほとんどが丸刈り頭で男装していた。女性と見るとソ連兵が所構わず乱暴するので、それを防ぐためだということだった。

 出航して3日目に日本の島影が見えた。博多港へ入港し、やっと日本の土を踏むことができた。翌日、博多駅から家族に電報を打ち、汽車に乗った。宮之城駅に着いたのは、46年8月1日の午後5時すぎ。ところが、だれも迎えに来ていない。九死に一生を得てやっとの思いで帰ってきたのに、と腹を立てながら家まで歩いた。

 ところが家に着くと、大騒ぎである。電報は届いていなかったのだ。その晩、食糧難の中で姉が工面してみそ汁を作ってくれた。あの味は忘れられない。4杯お代わりをした。電報は、その翌日配達されてきた。

 戦争、そして異国での生活を経験して、戦争の残酷さを身にしみて感じた。直接戦場に立たなくとも、多くの国民が苦しむ。もう二度と戦争をしてはならない。そのことを多くの人に分かってもらう努力を、惜しんではならないと思う。
(2011年8月13日付紙面掲載)

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