終戦後。学びやは変わり果てた。ぐにゃりと曲がった窓枠、机もいすも黒板も灰と帰した。軍国主義を下へ強いた時代を繰り返すものか―それが私の教師人生だった

2025/06/23 10:00
都城大空襲の資料を手に「次の世代に事実を語り継いでいきたい」と話す萩原静夫さん=都城市若葉町
都城大空襲の資料を手に「次の世代に事実を語り継いでいきたい」と話す萩原静夫さん=都城市若葉町
■萩原静夫さん(79)都城市若葉町 

 1945(昭和20)年4月、旧制都城中学校に入学した。宮崎県三股村(現三股町)の自宅から、都城市にあった学校まで片道約5キロ。松の並木や田んぼの間を抜け、1時間ほどかけて歩いて通った。周りに高い建物は少なく、白壁の鉄筋3階建ての校舎は遠くからも見えた。立派なたたずまいは生徒の自慢だった。

 戦況が影響したのか、入学してまもなく、授業は行われなくなった。3~5年生は動員で学校に来ておらず、残された1、2年生は銃剣術などの教練と、校庭での防空壕(ごう)掘りやカライモ(サツマイモ)作りばかりやらされた。

 中でも、防空壕造りは大変だった。校庭は一周400メートルのトラックが余裕でとれる広さがあった。これを囲むように幾つも造った。穴を掘り、山から切り出した木でふたをし、敵に見つからないように上から土をかける作業を続けた。

 3月以降、都城には空襲が相次ぎ、校内でも気を抜けなかった。5月のある日、屋外での作業中、学校に向かって米軍機が低空飛行で近づいてきた。みんなと防空壕に飛び込んだ後、恐る恐る入り口から外をのぞいたら、機内の操縦士の姿がはっきり見えた。こちらを見て笑っていた赤ら顔は今も忘れられない。

 夏前には、登校せず地元ごとに分かれ、農作業などの奉仕作業に従事するようになっていた。市街地に大きな被害をもたらし、後に都城大空襲と呼ばれる8月6日も、朝から農作業中だった。「都城が激しい空襲に遭っている」と聞き、午後、先輩2人と見に行くと、街は火の海だった。西の方には、まだ爆撃機がいて、バラバラと焼夷(しょうい)弾をまいていた。上空からの爆音も混ざった「ジャーッ」という夕立のような音が響く中、次々に火の手が上がった。

 学校の様子が気になり、爆撃機の動きを気にしながら向かった。校庭の端に着いたとき、コの字形の校舎に、焼夷弾が飛び込んだ。次の瞬間、あちらこちらから炎が噴き出した。火の勢いはしばらく収まらず、近づくこともできず、ぼうぜんと見ていた。

 次に校舎を訪れたのは終戦後だった。建物自体は残っていたが、内部は変わり果てていた。机やいす、黒板など木製の物はすべて灰になり、窓枠はぐにゃりと曲がっていた。はがれ落ちたしっくいが膝下の高さまで積もり、かき分けながら進まなければならなかった。

 やがて手製の机といすを使い、校舎で授業が再開された。幸いにもクラスから空襲の犠牲者は出ず、担任や級友と再会を喜び合った。しかし、同じ学年の別の組の3人が亡くなったと聞かされ、仲間を奪われたことに強い怒りを覚えた。

 小学生のとき、「この中で兵隊になりたい人」と尋ねられ、手を挙げなかったところ、先生に「なぜ挙げないのか」と迫られた記憶がある。軍国主義を上が下へと強いた時代を決して繰り返してはならないと、中学教師時代は子どもに接してきた。今、退職教職員団体の役員として、次の世代に都城大空襲を語り継ぐ活動を続けている。

(2011年8月16日付紙面掲載)

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