1945年1月、ルソン島のリンガエン湾は米軍の大艦隊の明かりで大都会のように輝いていた。日本は陸軍だけ。待てど暮らせど応援は来なかった

2025/09/08 10:00
当時のかばんや水筒を前に「死ぬまで悲劇を語り継ぎたい」と話す中原安時さん=天城町平土野
当時のかばんや水筒を前に「死ぬまで悲劇を語り継ぎたい」と話す中原安時さん=天城町平土野
■中原安時さん(92)天城町平土野

 1941(昭和16)年2月、徳之島を出征した。病床にあった母の言葉を今も忘れない。「男の子だ。きばってこいよ」。母は翌年亡くなった。戦場で奇跡的に生き残れたのは母が守ってくれたからだと信じている。

 満洲国境の警備任務を経て、44年秋に陸軍野砲兵第一七連隊の一員としてフィリピン戦線に転出した。「ようやく敵と戦える」と勇んだ。

 同年12月12日到着したマニラ湾の海面には何十本ものマストが突き出ていた。沈められた日本の船のものと分かり、がく然とした。空襲を避けながら、ルソン島のリンガエン湾へ向かい、湾の正面にある「ギザギザ山」に陣を張った。正月には菓子が配られ、同郷の兵らと星を見ながら語り合ったが、その多くが帰らぬ人となった。

 45年1月6日、米軍の大艦隊が押し寄せ、私は浜辺での水際戦に動員された。相手は陸海空から攻めてくるが、日本軍は陸軍だけ。10発撃つと、100発以上撃ち返された。ビューンという音が飛び交い、土煙が竜巻のように舞い上がる。いくつもの砲弾の破片がボスッ、ボスッと目の前の土に落ちた。

 3日後、本格的な抵抗がないとみるや、無数の戦車や兵士が上陸してきた。内陸の街へ後退したが、すぐに包囲され、街は火の海となった。遺体が重なり合い、至るところに腐敗臭が漂った。無我夢中で撃ち、駆け抜けた。地獄そのものだった。

 戦場では2、3歩の差で生死が決まる。何度仲間が息絶えていく瞬間を見ただろう。砲を抱えて10日以上、山中を移動し、宿営地に着いたとき、120人いた分隊は20人に減っていた。

 湾には大艦隊の明かりが大都会のように輝いていた。待てど暮らせど、応援は来なかった。雨期の5月に入っても戦況は悪化の一途。夜間行軍の合間に草を食べて飢えをしのぎ、倒れた兵から弾を集めた。山にはフィリピン人ゲリラがいて度々銃撃戦になった。

 在留日本人も犠牲になった。絶命した母親の胸で泣きながら、息絶えていった乳児の泣き声が忘れられない。悲惨な遺体に見慣れるうち、死に対する感覚もまひしていった。

 8月、弾も食料も残りわずかになり、残る50人で敵陣に切り込むことになった。ジャングルに沈む太陽を全員で見つめ、最後まで戦って散ろうと誓い合った。

 夜、機関銃を先頭に山を下りた。皆の目は暗闇の中でも異様に輝いていた。しかし、敵陣には誰もいない。夜明けとともに来るはずの砲撃もない。不気味な静けさだった。

 2日後、ビラや拡声器で降伏を促された。戦争は終わっていた。敗戦は信じたくなかったが「やはり負けたのか」という思いもあった。こちらはスコップで、相手はブルドーザー、物量差は明らかだった。9月3日、日本からの命令を受けてバキオで降伏した。

 終戦から33年後、ルソン島を慰霊に訪れた。フィリピン人遺族とも会い、あらためて誰もがつらい思いをしていると知った。「国のために」と命がけで戦ったが、人が人を殺す戦争はなんと愚かなことか。この悲劇を絶対に繰り返してはならない。

(2012年8月6日付紙面掲載)

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