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幕末新聞
「幕末新聞」は1867(慶応3)年の1年間を、当時の国内外の史料をもとに“新聞スタイル”で再構成。もし今の新聞があったらどう報道したか?薩摩藩を中心として激動の日々に焦点を当てます(構成上の「特派」や「談」はフィクションです)。「幕末新聞」は南日本新聞で2017年1~12月、月1回連載しました。
※メインの記事1本を掲載します。
[幕末新聞第4号]四侯会議開催 薩摩藩、主導権握れず

四侯会議の際に徳川慶喜が撮影したとされる(右上から時計回りに)島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
薩長同盟を結び、朝敵とされた長州の「冤罪(えんざい)を晴らす」と約束している薩摩藩首脳陣は、「長州問題の解決が最優先事項」との姿勢を打ち出し、四侯会議の共通認識としていた。長州藩主の毛利敬親(たかちか)・広封(ひろあつ)父子の官位復旧、広封の家督相続許可など具体的な名誉回復案を提起。また、幕府が天皇に許可をもらう「勅許」ではなく、あくまでも天皇が主体として命じる「勅命」にこだわった。
対する将軍は「兵庫開港は外国との約束があり、告示期限(6月7日)までに勅許を得る必要がある」と主張。四侯がこれに慎重姿勢を見せるや、長州問題と同時に朝廷に諮った。慶喜は「天皇ではなく、将軍こそが外交権を持っている」との体裁を守る必要があった。
ちなみに5月14日には慶喜たっての要請で、久光や容堂ら4人は二条城で記念写真を撮影した。写真が趣味の慶喜が自ら撮ったという。
23日夜分に始まった朝議は、慶喜と松平春嶽が出席した。先決事項を明言せずに両問題を提案した慶喜は、具体的な処分案に触れず長州を寛大に処置し、兵庫も開港するよう公家らに判断を仰いだ。結論が出ないまま膠着(こうちゃく)し、日付が変わるころに、慶喜が「降命あるまでは退出しない」と断言。公家らは強硬姿勢に圧倒され、“強情公”の異名を持つ慶喜に追従する形で両問題に「勅許」が下った。
最終的に、長州は「寛大な処置」とし、具体的内容には踏み込まなかった。途中から山内容堂が欠席がちになるなど足並みが乱れ、四侯会議は目立った成果を上げられず頓挫することとなり、危惧された通り「参与会議」の二の舞となった。
慶喜の粘り勝ちと言える結果に、朝廷工作の中心となっていた小松帯刀、大久保利通ら薩摩首脳陣は平和的手段を諦めざるを得なくなった。
会議の事前に、西郷隆盛と会談した英外交官アーネスト・サトウは「革命の機会について話をしていた」と明かし、薩摩藩の“決断”が近いことを示唆した。四侯会議の挫折で、一気に武力対決(討幕)という選択肢が現実味を帯びてきている。
※2017年4月6日、南日本新聞掲載
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