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幕末新聞
「幕末新聞」は1867(慶応3)年の1年間を、当時の国内外の史料をもとに“新聞スタイル”で再構成。もし今の新聞があったらどう報道したか?薩摩藩を中心として激動の日々に焦点を当てます(構成上の「特派」や「談」はフィクションです)。「幕末新聞」は南日本新聞で2017年1~12月、月1回連載しました。
※メインの記事1本を掲載します。
[幕末新聞第11号]薩摩藩主が率兵上京す 命運懸け4隻船出

率兵上京し、国政改革をにらむ薩摩藩主・島津忠義(尚古集成館所蔵、一部画像を処理してあります)
率兵上京は10月13日付で薩摩に出された「討幕の密勅」に従ったもの。表向きは、将軍・徳川慶喜の大政奉還後に朝廷から発せられた、全国10万石以上の大名への上京命令を受けての対応だった。政体が流動的な状況下で早く京都に駆け付け、国政改革の主導権を握りたいとの思惑も透けて見える。
在京薩摩藩首脳部が5月ごろから画策してきた、武力を伴う幕政改革(討幕)に対して、鹿児島の国元では慎重論も渦巻いていた。忠義の弟・久治をはじめ藩上層部には反対者も多く、藩論をまとめるため「密勅」が効果を発揮したとみられる。
11月1日に忠義が率兵上京に向け、家老らに出した訓令では、皇室の衰退を憂えた先代藩主・斉彬の意志を継ぎ、神速をもって天皇に拝謁(はいえつ)し、「御変革」に死力を尽くすと宣言。天皇を安心させ、万民の塗炭の苦しみを救うとしていた。「討幕」には一切触れていない。
薩摩藩の船団は三邦丸、平運丸、翔鳳丸に、長崎で直前に購入された春日丸を加え、4隻構成となった。忠義のほか、家老の島津広兼、岩下方平、在京首脳部で一時帰国中だった西郷隆盛らが乗船。兵制を英国式に改めて訓練を積んできた、城下兵一大隊および遊撃隊・大砲隊も乗り込んだ。
また、西郷と共に一時帰国していた大久保利通は土佐藩に立ち寄るため先に出発しており、小松帯刀は病気のため国元に残った。国父・久光も「御快気あらせられず(体調がすぐれない)」ことを名目に残り、忠義と藩兵の出発を見送った。一方、薩摩に滞在中だったモンブラン伯を伴い、五代友厚らも関西へと向かう準備をしている。
航路は佐賀関を経由して長州の三田尻(山口県防府市)に寄港し、長州藩世子・毛利広封との面会を予定している。出兵協定を結んでいる薩長芸3藩の行動計画などを協議した上、京都を目指す。京都には23日に着く見込み。長州と芸州それぞれの藩兵も、薩摩に合わせて行動を起こす計画という。
※2017年11月2日、南日本新聞掲載
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