遺骨を日本に持ち帰る前に、現地で火葬する収集団=1973年、マーシャル諸島(竹之下和雄さん提供)
さびた高射砲、旧日本軍のヘルメット、土にまみれた遺骨…。太平洋戦争末期、日米で計約2万9000人の犠牲を出した硫黄島(東京都)には、風化にあらがうように激戦の痕跡が今も残っていた。
鹿児島県いちき串木野市の時吉みずほさん(60)は7月下旬、遺骨収集調査団の一員として島に7日間滞在した。1月に続き2度目の渡航。自衛隊機で関東から約2時間かけて渡り、指定された区域で詳細な調査が必要かどうかを6人で調べた。
旧軍の壕(ごう)は至る所に築かれ、激しい砲撃や火炎放射器によるこげの跡が残る。「ガスが出た」「地表温度が70度近い」。残骸が見えても火山島の特性が立ち入りを拒んだ。同行する隊員は残念そうに退避を促した。
時吉さんは元島民の家族から戦前の暮らしぶりを聞いた。「自然は美しくて。戦時の人はどんな思いであの景色を見たのだろう」
■□■
渡航のきっかけは、遺族らでつくる硫黄島協会の野瀬純弘さん(79)=いちき串木野市=と知り合ったことだ。鹿児島が中心の歩兵第145連隊が島で散ったことを教わり、時吉さんの古里・奄美の人も多くいたことを知った。伝聞や映画の世界だった「戦死」が身近に迫り協力を申し出た。
野瀬さんは1歳の時に父長次郎さんが島で戦死、母ユキエさんも12年後に病死した。苦労して機械工となった30代の頃、生還者から母宛てに手紙が届いた。これが縁で1982年に遺骨収集調査に誘われ、40回近く島に通った。「戦争は多くの人の人生を狂わせた」。野瀬さんは力を込める。
自費で船を乗り継いだ初の渡航で「父の最期の壕」にたどり着いた。米軍の砲撃がやみ、外の様子を見ようとした瞬間に撃たれたという。「部下の自分を守ってくれたんだ」。生還者は涙ながらに説明した。
海辺の壕に母の写真と父の古里・薩摩川内の水を手向けた。「父に初めて触れられた気がした。同じように待つ遺骨がまだある。その一心で通った」
■□■
遺骨収容は戦争の無残さを思い知る作業だった。灼熱(しゃくねつ)の壕でうずくまったままの遺骨、米軍の雨具に包まれ折り重なっていた400柱以上…。一人一人を弔う。だが、全体の半数はまだ見つかっていない。
自衛隊が管理する島への訪問は関係者に限られ、数週間の時間も必要。島の中央に広がる滑走路下の本格調査はめどが立たない。
今、「抑止」の名の下に勇ましい言葉が聞こえることに野瀬さんは憤る。「赤紙1枚で人が殺し合う。私のような遺児を生み、苦しめる。それが戦争だということを伝え続けたい」
◆戦後処理一筋
官公庁にほど近い東京・新橋。オフィスビルの中に「日本戦没者遺骨収集推進協会」がある。硫黄島(東京都)や沖縄、海外の戦没者59万柱の遺骨収容の要となる社団法人だ。
2016年、収容を「国の責務」と定めた法の施行を受けて設立された。専務理事の竹之下和雄さん(81)=鹿児島市桜島出身=は厚労省で戦後処理一筋だった行政経験を請われ、立ち上げから携わる。
最も古い記憶は台湾での空襲。製油会社勤務だった父は1943(昭和18)年に大阪から徴用された。戦後、一家で父の実家がある桜島へ移り、鶴丸高校を卒業。62年に旧厚生省援護局へ入った。
元陸軍庁舎で始まった初仕事は「軍人の恩給」だった。出征先や引き揚げた場所、階級を確認し審査した。「日本軍がどこに行き、どんな組織だったか。自然と頭に入っていった」
■□■
元陸軍中佐で、引き揚げなどの援護を続けていた先輩に託された言葉が人生の指針となった。「局地戦で勝った日露戦争でも戦後処理に30年かかった。今回はアジアに広げた上に、敗戦だ。100年は続く。どうか若者が支えてほしい」。以来、援護局にこだわり続けてきた。
戦後間もない遺骨収集は島ごとに5人程度の「象徴遺骨」でいったん終えていたが、70年代に戦友会や世論の後押しを受け再開する。竹之下さんは、小笠原諸島が日本に返還された直後の硫黄島を皮切りに、マーシャル諸島など南方諸国、さらにシベリアなどの大陸を回り続けた。
戦後の開発があったり、反日感情から協力を得られなかったりした。風化からか、持つと砕ける遺骨も既にあった。「もはや戦後ではない」と言われながら、誓った再訪を果たす戦友たち。その涙を胸に刻んだ。
■□■
遺骨に加え、80年代からは中国残留孤児と向き合う。援護基金や定着支援施設の設置に奔走し、中国孤児対策室長を務めた。
帰国受け入れ時には孤児、日本側家族の双方に「同化ではなく、異文化への理解を」と訴えた。だが、定着は容易ではない。支援を巡り国家賠償請求訴訟にも発展。2007年に国が新たな支援策を示し政治決着するまで、国の責任や支援のあり方を現場で考えた。
退官後、再び戻った遺骨収集。交戦国の記録を精査するなど体制は強化されたが、新型コロナ禍に見舞われた。政府は7月、「集中実施期間」を当初から5年延ばし29年度までとした。
「戦後」の重みを今も実感するだけに、世界各地で起こる紛争を聞くたびに嘆息する。「戦争は人間の性(さが)なのか。それを超えられる英知はないのか」。遺骨を一柱でも多く集め、問い続けるつもりだ。
【硫黄島】
東京の南約1250キロにあり、太平洋戦争で本土防衛の最前線となった。1カ月超の戦闘で日本軍は約2万1900人が死亡、鹿児島県関係者は約2200人とされる。日本兵約1万1000柱の遺骨は未収容。米兵も約7000人が犠牲となった。現在は自衛隊基地が置かれ、米軍空母艦載機の陸上離着陸訓練(FCLP)が行われる。FCLPは西之表市馬毛島に建設中の自衛隊基地に移転予定。
【戦没者遺骨】
硫黄島や沖縄を含む海外戦没者は約240万人。うち未収容の遺骨は約112万柱。海没した30万柱と、相手国の協力が得られない23万柱を除いた59万柱の収容を目指す。新型コロナの影響でこの3年は年間73~121柱にとどまる。今年7月に基本計画を改正し、未調査となっている国内外の埋葬地約3300カ所の現地調査、遺骨鑑定の迅速・高度化を進めることを明記した。