戦没した船のパネルが並ぶ中で「これが富山丸」と指し示す大井田孝さん=2日、神戸市の戦没した船と海員の資料館
太平洋戦争中、人や物資を輸送するため商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ。特に80年前の1944(昭和19)年以降、戦況の悪化に伴い被害が大きくなった。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、鹿児島県周辺海域では60隻超が沈み、1万人以上が亡くなった。
戦後の国の調査によると、日本の民間船舶は7240隻が戦没した。同資料館は約2500隻の戦没位置や死者数などをホームページで公開している。
県周辺海域の記録を集計すると、42年3月から45年5月までの間に戦没した船は少なくとも65隻、戦死者は兵士や船員、船客、疎開者ら1万683人に上る。
42年の戦時海運管理令などによって国が商船や漁船を一元管理し、輸送や監視業務にあたらせた。軍関係者や船員以外の乗客の情報は乏しく、被害の全容は分かっていない。4000隻以上が犠牲になったとされる漁船・機帆船の多くも記録が残っていない。
県内周辺で最も死者が多かったのは44年6月29日に徳之島沖で戦没し、沖縄派遣部隊約3600人を含む3700人超が亡くなったとされる富山丸だった。民間人の犠牲が最も多かったのは44年8月22日、十島村悪石島沖で戦没した対馬丸。学童784人を含む疎開者ら1484人が亡くなったとされる。
戦没した65隻のうち44、45年に27隻ずつ計54隻が撃沈された。44年まではほとんどの船が米潜水艦の魚雷で沈み、45年は空爆で犠牲となった船が半数を超えた。
富山丸や対馬丸、十島村中之島沖で沈没した武洲丸の遺族らは今も慰霊式を続ける。「戦時遭難船舶遺族会」(沖縄県)は、奄美大島近海で沈没した嘉義(かぎ)丸、屋久島町口永良部島沖で沈没した湖南丸など25隻の犠牲者を対象に活動している。